あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

3.11.2018

 

 

 

文化の日に、言語の海に突き落とされる

 

 

 

今日の昼間に、奨学金の申請に必要な試験を受けにいった

 

簡潔なオンラインテストなのだけれど、

文章のうちのかなりが虫食いになっているので、

感覚で分かるときもあれば、全くちんぷんかんぷんなものもある

 

いずれにせよ、

公開されている模擬試験ではB1相当だったので、余裕を持っていたのだけれど、

友達があまりにも不安がるので、少しそれを引きで見ていた

 

私は、怒りへの共感性は高いけれど、不安への共感性は極端に低い

 

それは、今まで私はどうしようもない感情として、

誰かに対する憤りは表に出すことで消化していたけれど、

結局、不安については他者に共有することこそあれど、答えまでは求めずに、

自らが納得のいく形で自己解決してきたからなのかな

 

何となく、不安をぶちまけることは、予防線を引くことに等しいような気がしてしまう

 

 

 

結果は勿論、B1

決して点数が良かったわけではないけれど、ともかくこれで権利は勝ち取ったわけで、

ほっと、一息

 

 

 

そして迎賓館周りを、コーヒー片手に散歩

 

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高層ビルは好きではないけれど、

窓に反射する青と、秋色のコントラストは、美しかった

 

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広角レンズを使って風景を切り取ったのは、実は今日が初めて

映らないものが、映るというのはこういうことか

自分の眼に映る風景に近づいていて、そのことが私を安心させる

 

元々、写真はそこまで好きではなかった私がミラーレスを買ったのは、

やっぱり自分の記憶に焼き付けられるものには、限界があると思ったからなのだ

 

 

 

それから、青山公園で行われているドイツフェスティバルを訪れた

そこで他の友人たちと合流、

(実は昨日も訪れていたらしいのだけれど)

ついでに前にも話したことのあるドイツ人のチューターの彼も、

それから一人の友達がドイツ人の彼女を連れてやってきた

 

彼女は、何人かは面識があったのだけれど、私とは今までに縁がなく、初めて

でも、大層日本語が上手だし、本当にいい子だったよ

 

すると、英語の達者な友達が、隣のアメリカ人と会話を始める

その場にいた英語話者勢は、皆その会話に参加

 

結果、右からはドイツ語、左からは英語、

そして周りからは日本語が聞こえてくるというカオスな状況

(多分そんなにカオスでもないけれど、私からしたら十分にカオス)

 

荒れ模様の言語の海に、攫われて流されているような気分

相手の言わんとすることは分かるのだけれど、

会話の展開の早さに、何か自分の意見を醸造するいとまも、ない

 

ここ一週間で感じていたことなのだけれど、

外国語を勉強するということは、

まるで大海原に抱かれている、あるいは彷徨っている気分で

 

取りつく島も、しがみつく流木も、何もないただの海

波打つ音のほかは静謐、だけれど、一体どこに向かって、どれくらい泳げばいいのやら

それでも、溺れないように何とか耐え忍ばなければならない

 

 

 

底知れぬ不安こそあるけれど、でも心地よさすら感じてきたよ

 

 

 

昨日、日本のハイコンテクストぶりについて言及したけれど、今日も

 

ドイツ人の彼女が、日本語で、「なんか、なんか」と連発しているのを聞いて、

例のチューターの彼が、あれはドイツ語で言うと、どういう意味なんだ、と訊いてきた

 

友達は、「うーん、英語で言う、"like, like..."みたいな感じかなぁ…?」と答え、

私は、「と言うより、"something like" の方が近いんじゃない?」と答える

でも、ドイツ語で言い表す術が見つからず、彼もまだ飲み込めていない様子

 

だけど、私はそこでハッと気づいた

「“なんか”って言うのは、元々“なにか”と同じ言葉だよ」

と、日本語で言うと、

彼はそれだけで、ようやく合点がいった!というように納得していた

 

私たちも外国語でぶち当たることが多い口語表現だけれど、

当たり前すぎてもはや意識していないことが、こんなに悩ませているとは

「なにか」と「なんか」が違う単語に見えてしまうなんて、考えもしなかった

 

私は日本語しかちゃんと喋れないから分からないけれど、

特に日本語は口語になった瞬間に、

その場のアドリブで言い回しを変えることが本当に多いと思う

 

関西弁くらいだったらいいのだけれど、変な言い回しや語尾をつけたりする、

それは稀ではないし、それでも何となくの語感でたやすく意思疎通を交わしている

それは、やっぱり日本語のハイコンテクスト性に依拠しているのだと思う

 

そして私はといえば、中途半端にハイコンテクスト文化に入り浸っているので、

余計に自分の言いたいことを外国語に直すことが、とても難しく感じることがある

 

私は日本語を完璧に理解しているわけではないけれど、

やっぱり、それなりに使える方だとは思っている

 

私は日常会話では、慣用表現や熟語、比喩表現を好んで使うし、

めちゃくちゃ砕けたネットスラングや若者言葉、内輪ネタも多用する

こうした自分の会話スタイルは嫌いではないけれど、

それをそのまま外国語に直すのは、無理だ、

だってそんなのは教科書に書いてないし、ましてや聞いたこともないから

 

しかも会話の内容までも内輪ネタもりもりなので、

外国人は勿論、初対面の人と話すことがなくて、永遠に黙っていることは少なくない

(別にそれはそれで心地よいのだけれど、周りが気を使うことも少なくないので、芳しいとは言えないんだろうな)

 

日本語の日本語訳をしているうちに、会話は進んでしまっていて、

これはうーん、ちょっと問題だけれど、どうしたらいいものか

 

とりあえず、数を積んでいくのみかな、

たとえ先が、見えなくとも