あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

26.9.2018

 

 

 

この数日、思うことは非常に多かったのだけれど、
それだけ物事が目まぐるしく過ぎていって、書き留める間もなかった

 

 

 

とりあえず、9月24日に大学の講義は再開し、
私は無事、二十歳を迎えた

 

その朝見ていた夢が象徴的だった(また夢か)

 

ある民宿の宴会場みたいなところに、
私の人生で今まで触れ合ってきたコミュニティにいる知り合い達が、
全然何の関係も無いにも関わらず、なぜか一堂に会して酒を酌み交わしている、
という設定

 

幼稚園の同級生、
小学校で出来た生涯の悪友、
中高の部活の同期、後輩、多分先輩も、
大学の語学クラスの友人達に加えて、
他大のサークルの人たち、
それから忘れてはいけない、親

 

私はくるくると相手を入れ替えながら、他愛もない話を続けたけれど、
いよいよ何故みんながそこにいるのかは分からなかったし、
明晰夢ではないから、そんなこと疑問にさえも思わなかった
(ただ、私のためではないようだった)

 

ハタチの朝に、こんな夢を見るなんて、私らしくもない
成人した瞬間は、
友人に銀魂の沖田とジュースの話をしていたら日付が変わっていたという、
くだらないけれど実に私らしいハタチの迎え方だったと、思っていたのに

 

大学が始まったその日は、幸いにもたくさんの人に会うことができて、
たくさんのお祝いの言葉を受け取った

 

昨年は日曜日で、友達に祝ってもらっていたのだけれど、
正直あまり良い一日だったとは言えない一日になってしまったし、
中高のうち最初を除く5年間は、全部テスト期間に丸かぶりだった
(まあ、そんなに顔も付き合いも広くないので、
盛大に祝ってもらうイベントっていう認識もなかったのだけれど)

 

その前もまあ色々あって、
自分の誕生日当日にはあまり良い思い出がない私だったのだけれど、
今年は色々差し引いても、上出来な方だったんじゃないか
気まずい思いこそすれ、不快な気持ちにはならなかったし

 

そういえば、だからなのかもしれないな
誕生日当日に祝ってもらうことに、特にこだわりがないのは

 

 

 

そして昨日は、久しぶりに去年の語学の友達と夕飯を食べにいった
皆私とは半分だけ学部が違うし、
ゼミの話とかは正直被っているわけではないのだけれど、
それでも彼女達は皆考え方がしっかりしている人たちだから、
すごく参考になって、私の糧にもなる

 

真面目な話をしても、難しい話をしても、真摯に受け止めて、流さないでいてくれる
こういう時に、少し厳しめのコースを取っておいて本当に良かったな、と思う

 

勿論、冗談もたくさん話したよ、
将来孤独死したらどうしよう、とか、
喪主の話とか
(今からこんな心配をしていて、年代とは、となった)

 

 

 

その帰り道、一人で歩きながら、ふと考えていたのは、
やっぱり私と言葉の関係性だった

 

私にとって、言葉はハサミやカッターと同義だ

 

せかいを切り取る道具であって、
同時に何かを刺したり、傷つけたりすることのできる武器でもある

 

最近改めて実感したのは、どういう切り取り方をするかで、
私たち自身が変わらなくとも、せかいが変わらなくとも、
世界は簡単に変容する

 

どんな視点で、どんな言葉で、どんな言い回しをするか
ただ見ているいつもの景色が途端に美しく浮かび始めたり、
どんなに価値のあるものでも、堕天させることができる

 

私は、世界にある美しいもの達が、美しい言葉を紡がせるのだと思っていた
そして、美を見るためには、それ相応の自分自身が必要なのだ、とも

 

でも、その反対のプロセスも起こりうるのだと、
せかいは案外、簡単にその姿を変えてみせてくれるのだと

 

 

 

そして今日、国際法の初回講義を受けながら再び考えていたのは、
24日にも一瞬考えたこと

 

結局、私たちが、
今現在、世界から無視、断絶、隔離、ないしは疎外されているもの達のためにできることは、
ごく限られているのだということ

 

私は、当事者ではない人たちが、当事者側に立っていると自負しながら、
何か訴えを張り上げていることに、ずっと違和感を持っていた
当事者のことは当事者にしか分からなくて、
「その苦しみや訴えを代弁する」ことは、できないのではないか

 

実はこの考えについて確信したのは、身の回りの人間関係のよじれからだった
いくら他者の考えを聞いて、それを他の相手に私が代弁しても、
真実味もなくて、薄っぺらいインフォメーションにしかならない

 

そこには確実に何かが抜け落ちていたし、肝要な部分が伝わらない
それに、私だって彼女の考えていることを100%理解しているわけではないのだから、
歪みが生じるのは、当然のことなのだ

 

私たちにできるのは、その苦しみや訴え自体を肯定・否定することではなくて、
当人達の存在、それから主張する権利を、奪わないことだけなのではないか

 

つまり、
「本人が自分自身の主張をできる環境を整えること」
ぐらいなのではないか、と思うのだ

 

そのためには、どんな考えを持っていたとしても、どんな人間だったとしても、
ただ、「あなたはそこにいていいんだよ」という存在の承認が必要だと思う

 

そうすることで、未知なる恐怖、つまり自分が否定されてしまうのではないか、
という不安を取り除くことに繋がると思うから

 

これは何者でもない私の根拠のない意見かもしれないけれど、
それが、美しい平和の一つの形なんじゃないかと、思うのです