あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

3.2.2024

 

今日の東京は、空のどこを切り取っても、霞ひとつない快晴

 

昨日まで牙を剥いていた寒波がすっとひいて
このまま、天に召されてしまうのではないかしら、という穏やかさ

 

わたしはというと、朝起きて、
コーヒーを挽き、パンを温め、バターとトマトを乗せてゆっくり食べる
そして、先日買ったカシューナッツをフライパンで炒って
ついでに、いつからあったかわからない限界アーモンドも、炒りなおす

マシにはなるけれど、酸化臭は否めない
というか本当は食べるのはあまり良くないんだろうけど、
貧乏性を発揮して、トラパネーゼ風ソースもどきを、有り合わせの食材で

 

 

匂いは、まあという感じだけれど、
ナッツとチーズとトマトのコクで濃厚な仕上がり
そういえば留学中も、くるみのペーストが入ったパスタソースが大好きだったな、
他のソースよりも割高だったから、自制するようにしていたけれど

 

それから、もちろん身支度を整えて、ちょっと遠めのパン屋巡り
だってこんなに晴れていて、次の日も予定がなくてゆったりできる土曜日に
出かけられなかったら、一生後悔する

 

ところで、わたしはほんとうに、“クロワッサンダマンド“によわい
先ほどアーモンドを食べたばっかりなのに、
早速一軒目のパン屋で、クロワッサンダマンドを発見し、
考える間もなく、トレイに載せていた

 

だってだって、大きくてつやっとした栗までが、真ん中にどしっと鎮座している
こんなのって、反則だ

 

 

耐えきれず、歩きながらつまむことにしたのだけれど、
本当に、おいしい!

 

結構お腹いっぱいかも、と思いつつ、口に運ぶ手が止まらず
結局ぺろっと完食してしまった

 

そして道中では、いい感じのカフェを発掘
高すぎなかったのでふらりと入店し、
カプチーノをオーダーしたら、素敵なデザインのカフェオレボウルに入ってきた

 

 

はあ、大好き、と心の中で呟きながら、アーレントの『人間の条件』をひらく

 

 

 

新訳といえども、やっぱり文章は難解で、1章までしか読み進められなかったけど
プロローグの印象的な一節を、記しておきたい

 

言葉にならない真理、言葉のはるか彼方にある真理が意味を持つのは、他者との関わりを持たない単数形の人間〔man in the singular〕、およそ政治的な存在でない人間にとってである。複数形の人間、この世界に生きて活動している人間にとって、経験が意味あるものとなるのは、彼らがそれを互いに話し合い、相手、そして自分自身に理解できるものにしているからなのだ。(p.19)

 

この後の章でも述べられているけれど、哲学者(的生き方)とは、プラトンの洞窟の比喩に印象的なように「単数形の人間」のイメージだったから、アーレントが人間の条件として「複数の人間」の中で生きること、そしてその間での言語コミュニケーションを強く意識していたというのは、意外だと感じた

 

そして、まさに生成型AIが幅を効かせはじめたこの時代に、この新訳が出ることの意義を噛み締める

 

最近「名前と存在」について、よく考える
サピア=ウォーフ仮説には強い批判もあるし、一概に言えない部分もあるけれど、
それでも、対象を五感の何かしらで捉えられない状況にいるときに、
その対象が言語化できていない場合、認識から抜け落ちてしまうだろう

 

わたしが中高のときに感じていた強い不快感は、
「ここにいるわたしのこと、周りからは見えていないのかもしれない」
という不安に発していたと思う

 

それは、弱者が“弱者”として名前を剥奪されていることに紐づいて起こっているようにみえる社会問題の大半と構造は類似しているような気がして

 

あのとき、そういう発想に至らなかったのは、ひとえにわたしに
自分が“弱者”であるという認識がなかったからで、
実際に弱者ではなかったような気がするし、それは幸運なことだった

 

部活で顧問に、
「見えない問題を見ることが、一番難しい」
と再三言われたことを思い出している

 

部活という制度は結局好きになれないままだったけれど、
あれだけの時間を投資したなりに、学びは得られていて、
何もしないよりは、いい経験になった

 

もうちょっと、世の中のいろんなことについて、
考えを巡らせる時間を、とっていきたい
そうすれば、もっと人間らしかったあの頃の自分を取り戻せるような気がする