あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

21.6.2020

格差社会について考えていて、
社会保障制度で「社会的弱者を救済する」っていう
その態度がそもそも気に食わない
というかおかしいんじゃないかって、ふと感じた

 

人間というのはそもそも社会的生物であって、
集団を形成することで、勝ち残ってきた、という説があるとする

 

だから、人はなるたけ大きな数の人間を取り込めるシステム、
すなわち「社会」を作り上げたのだと

 

それは詭弁だ、と私は思う

 

システムはほとんどの場合、多数の合意のもとに作られた試しがない
それは基本的に、強者の理論で組み上げられるものだ

そもそも、人間の能力には個体差がある
例えばシステムを作るのに長けた才能を持つ人もいれば、
全くそれとは関係ない才能を持っている人だっている

 

けれど、「社会」という前提がそもそもあるからこそ、
必然的にそのルールの中では強者・弱者があらかじめ、決められている

 

人間の存在そのものが平等であったとしても、
社会の中で完全に平等に扱われる可能性というのは、無に等しい
だって、社会とは秩序という名のルールでできており、
秩序とは序列をつけることに他ならないから

 

私は、人間世界が無秩序になればいい、
ということを主張したいのではない

そうではなくて、社会保障制度とは、
一般的に見なされているような、
強者が弱者に与えている「情け」なんてものではなくて
ある一定の能力を持った人たちが、ルールを定めて、社会を作った
「強者」が強者としてあることを「弱者」に乞うための、
一種の「免罪符」であると考えられなければならないのではないか、と思うのだ

 

これは極端すぎる議論であることは、分かっているけれど
それでも私が鼻持ちならないのは、
「強者」のグループに含まれている人間の中に、
あまりにも選民思想が強い者が、あまりに多すぎるということ

 

それは露骨な形で現れている部分だけを言っているのではない
勝手に作ってきたルールを押し付けて、
即「社会」に貢献できる、役に立つ人間だけを評価したがる
この世の中自体に、私はもう辟易としているし、絶望すら感じる

 

社会で役に立つか立たないか、確かにそういった指標はあるだろう
だからってそれを人間個人の価値判断と同一視する人間が、多すぎる

 

そんなことだから、格差は広がる一方で、
数値上は豊かであっても、
全然豊かさを感じられない人々が増え続けているんだと、思ってしまう

 

「弱者」は、社会的地位があるかどうか、経済力があるかどうかではない
それはちっとも、本質的な部分ではない(但し、実質的な部分ではある)

 

最終的な「弱者」というのは、
人類が築き上げてきた「社会の大いなる流れ」に取り残されていく人たちだ
この社会の中で生きていくことに対して、
全く、意義を見出せない人たちのことだ

 

私はそうしたことを考え続けていきたいのに、
世の中はどうでもいいことにばかり
あくせくしているな、と思ってしまうばかりで

 

でもこんなことも、きっと、社会にマトモに出たことすらない、
学生の戯言に過ぎないのかもしれない、と思って
どう解釈したらいいのやら、悩むばかりだ