あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

28.9.2018

 

 

 

今日はちょっとだけ、整理の日

 

溜まっていた画像の振り分けや、スクリーンショットの削除、
メルマガの振り分けをした

 

少しでもこれから時短が叶うように
やっぱり、電子世界の上でも、現実世界の上でも、整理は大切だ

 

でも、私は変に凝り性なところがあるので、
一度やり始めると最後までやめられないのが、玉に瑕
まだまだ私の世界には白か黒、1か10しかなくて、不器用なまま
中庸が一番だ、ということは、頭の中では分かっているのだけれど

 

 

 

新しく、金曜の2限に文学の講義を取ることになる
本当は余っている単位で中東圏の歴史を学びたかったのだけれど、
色々あって、最終的に弾かれてしまい、履修できなかった
その関係で、追加履修を行った結果、
弾かれずに済んだ3つの科目が、意図せずして皆英国ゆかりの科目になってしまった
英国マスターにでもなるのか、という

 

今回受講するのは、なんとアーサー王についての講義だ
「何故こんな、私のいかにも好きそうなテーマが!見逃されていたのか!」
と疑問に思っていたのだけれど、珍しく通年ではなく、秋のみの開講だったからかも

 

そういえば、私去年はこの時間に何を受けていたっけ、と思い返すと、
必修の英語だったから、そもそもリサーチもかけていなかったのだ、
ということに思い当たる

 

でも、面白いのが、去年の英語のテーマも、
やっぱり童話及び民俗伝承についてだったなぁ、ということ
変にリンクする金曜二限

 

そういえが、去年の英語の先生には、ちょっとしたはずみで創作をしていること、
賞に応募したいことを話したのだった
名前を覚えられててびっくりしたのもそうだけれど、彼女が素直に、
すごい、頑張ってね!応援してる!と言ってくれたのが印象的だった
「受け入れられる」ってこういうことか、と思ったのだ

 

結局、去年の夏には挑戦することが出来なかったのだけれど

 

こう書き出していて、連鎖的に思い出したのだけれど、
そういえば、私に文章という武器を与えてくれたのも、
中高時代の英語の先生だった
(この話もうしたかな? でもいいや、今また振り返りたい気分なので)

 

中二の時、文化祭を準備している最中に、急に先生に呼び出された
私、何かやらかしたかな、と肝を冷やしながら向かうと、
私が被災地についての短いエッセイを提出したのが目に留まったそうで、
「涙が止まらなかった、是非文化祭で展示させてほしい」
と言ってくれた

 

私は内心面食らっていた
その課題は提出日の0時に唐突に思い出して、急ぎ足で仕上げたものだったから
承諾こそしたものの、最初はよく分かっていなかった
一応、でかでかと印刷されて貼られているのを見に行く
そんな価値のある文章なのかは分かりかねたが、少なくとも誇らしく感じたのは確かだ

 

その時期はいろんな出来事が重なっていて、
私の自尊心は折れかかっていて、半ば投げやり気味に生きていたので、
それは確かに私のことを救ったと思う

 

 

卒業式の日、感謝を込めて卒業生が花道を作り、
その下を先生達が潜り抜けて、最後の挨拶を交わす、という局面があった
花道には学年全員が参加するのだし、私の周りにも当然他の生徒がギッシリ
そんな中、その先生もその花道を通る

 

彼女は偶然私たちの学年の持ち上がりで、
6年間学年を担当していたのに、
ついに一度も担任に当たることが出来なかったのは、とても残念だった
(多分そんな人なかなかいなかったと思う)
だから当然、私の存在感も、そんなにないんだろうな、とも思っていた

 

にも関わらず、だ
通り過ぎる時に、彼女はあえて私に名指しで言ったのだ
「あなたは、書き続けなくちゃ、ダメよ!」

 

 

 

すごい先生だったなぁ、と思う

 

実は、これもすごく偶然なのだけれど、私の母の友人の担任をしていたこともある
(多分、先生は新任だったんじゃないかなと思う)
母の友人はいわゆる不良娘で、学校も全然来ないし、退学するかどうかの瀬戸際だった
その時に、彼女が卒業できるように上に働きかけてくれたのが、彼女だったのだという

 

純粋に、すごいと思う
だって、新任の時なんて、
これから、という時なんて、そんな面倒ごとに関わりたくないはずだ、
上に楯突くことなんて、普通にできることじゃない

 

 

 

何回でもいうけれど、彼女はすごい先生だし、間違いなく私の恩師だと思う

 

他の子達からもすごく慕われていたけれど、
特に私は、先生や先輩に媚びられない(というと少し変だけれど)性格で、
だから中々話しかけたり、仲良くしたり、ちゃんと関係を築くことが出来ない、
相手に無関心のまま終わってしまうことが多い

 

その私が、これだけのことを思う人は、中々いない
どうか、長く生きてほしい(といってもまだ50代くらいだと思うのだけれど)
できれば、私がこの先何をするのか、できるだけ長く見ていてほしい、と願う
とても、特別で唯一無二の存在だ

 

 

 

どうしてか、私の人生というものは、
物事が連鎖したり、影響しあったりして、
自ずと向かいたい方向性が決まってくるものだった

 

丸々興味がなかった分野でも、
人生での登場回数が多くなったり、思いがけないところで結びついて再会したりで、
いつしか私の興味の範疇となる
(例えば、ラテンアメリカ文学、スラブ文化圏、など)

 

だから実は「このまま進んで社会的に大丈夫だろうか」と思うこそあれ、
「私はこんなことがしたいんだろうか」と本気で悩んだことは殆どない

 

書けない時期は辛かったけれど、それでも心のどこかで、
「私はまた絶対書くことができるし、書かなきゃいけないんだ」
と思っていた(それは多分彼女の存在が大きい)

 

だから、私は運命というものを信じている
そして運命は、最終的に私の味方になってくれるとも、

 

大した根拠もないのに、確信している