あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

18.3.2019

 

 

 

昨日の夜、唐突に友人が私の最寄りまでやってきて、
少し、話を重ねた

 

その時点で私はだいぶ出来上がっていて、
だからこそふざけて「おいでよ」なんて言ってしまったのだけれど、
本当に来ていただけるとは、いやはや“spontan”とはこういうことだな、という感じ

 

最初は頭が回らなすぎて、
衝撃的な話にも間の抜けた返事と笑いしか添えられなかった、
けれど、弱いお酒を飲んでいるうちに、酔いも覚めて来て、笑
最後の方はまともに話ができたかな

 

その後、家に帰ってからも他の友人と少しメッセージを交わして、
眠りについたのだけれど、
両方に共通するテーマだな、とぼんやり思っていたのは、
言語と思考の共通項についてだ
これに類似した話は、もっと前にここでも書いたかもしれないけれども

 

各言語には文法規則があるように、
思考にもまた文法めいたものが存在する、と私は感じている

 

それは他の表現を使えば“思考回路”や“バイアス”といえるのかもしれないけれど、
なんだか、そんなにカッチリとしたものではない流動的な印象なので、
私はあえて「思考の文法」と呼んでいる
文法事項も、時代を経れば変わっていくし、
各人によって使っている文法も若干の差があると思う

 

しかも、
サピア=ウォーフ仮説に対しては懐疑的な論も散見されるけれど、
それでもやっぱり、私的には、言語は思考に影響を与えているように思う
それは、母語か外国語か、ということに限らず、
知っている語彙の種類によって、
思考を整理する方法、カテゴライズ法が異なってくると思うから
私は身をもって、日々そのことを実感している

 

そして異なる文法を持っている人と対話するのは、やはり困窮を極める
自分の発した言葉が、
相手の対話チャンネルのトリガーとなり得ない可能性が高いからだ
そのトリガーが引かれなかれば、いくら何かを伝えようと思っても、
相手にされないか、酷い時には曲解されて終わってしまう

 

加えて、相手と自分がどんな文法を持っているのかを知ること
これは何年付き合ったとしても、完全に遂行することは不可能だし、
たった数年の付き合いでは氷山の一角しか見えてないことに過ぎないのだと、
ここ数年のいくつかの出来事で、思い知らされた

 

私の理想とする人間関係というのは、
ある質量を相手に投げたら、均等な質量で相手から投げ返されることだ
けれど往々にして、これを難しくしているのは、自分自身だと分かっている

 

私が、相手が自分に対して見積もっている価値を信頼できなくて、
ついつい多めに投げ返してしまって、
それに見合った質量が返ってこないと、
一人で落ち込んだりモヤっとしたりしてしまう、ということを繰り返しているから

 

だから、もし自分が多く投げ過ぎていたら(勿論、少なすぎる時も然りだけれど)、
何の気もなしに、
「多すぎる、こんなに要らない」
と、遠慮なく言ってくれる人が、側にいてくれるのが、一番なんだろう

 

願わくば、そういう人に囲まれていたいけれど、
たったの一人や二人でも、こういう人を見つけるのは、中々難儀なことだ

 

本当に、人付き合いは難しい
生涯の難問として、私はこれからも背負っていくのだろうなぁ