あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

4.12.2018

 

 

 

今日は一日中、だるさを引きずっていた

 

何があったというわけでもないのだけれど、

いつも以上に起き上がるのがしんどくて、

景気付けに買った、限定のフラペチーノ

 

本当は、信じられないほど甘いのだろうけれど、

その止めどない濁流のような甘さに、押し流されているのが、心地いい、

そんな日もある

 

 

 

今日もまた、もやっとしたものが増殖しているのは、確かで、

 

 

分かってもらえていないのではなく、そういう状況にないんだよ、

だから、こういうことを言われたりするのも、当然なんだよ

 

そう自分に言い聞かせるけれど、どこか納得していない自分がいて、

だって、だって、という幼稚な言葉が、心に溢れかえって、窒息しそうになる

 

私ばっかり、求められるものが大きい、

不得意なことだけど、必死に頑張っているのに、

できていないのは分かるけれど、どうしても上からに聞こえてしまう、

それは私の、劣等感と後ろめたさのせい?

 

でもそれは最早、自分に向けるものではなくなっている気がして、

これ以上言語化するのは、危険な気がする

 

 

 

さて、今日は友人から借りて、少しずつ読み進めていた『サピエンス全史』を、

ついに読み終えた

 

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 

 

一部だけ、授業で取り扱ったことがあり、

いつかは全文を読みたいと思っていたのだけれど、如何せん高くて手に入らず、

幸運にも、やっと巡り会うことができた

 

名前の通り、紀元前から現代までの世界史の流れの中で、

生物としての「ホモ・サピエンス」がどういった動向をしてきたか、

ということを、少しシニカルなユーモアを添えて語る

 

本当に、時々シュールすぎて爆笑してしまう場面もあるのだけれど、

人類の行ってきた悪行についてメスを入れる時は、

その淡々とした語り口が容赦なく、思わず目を背けたくなる場面も、ちらほら

 

まあ、認知革命やミーム学などのところも、面白いのだけれど、

話していたらキリがなくなりそうなので、一つだけ

 

「帝国と科学の融合」と章題がつけられた、15章目

ここの内容から、私は意識が離せなくなった

思わず、一章丸々コピーを取ってしまうほどに

 

ここで語られるのは、大航海時代前後の西欧人の世界の捉え方、

そして大航海時代における各地への大遠征と科学の結びつきと、その影響

 

ざっくりと要約すると、

新大陸発見により、

世界の人々の中で唯一、自らの無知さを認識し始めた西欧人が、

未だ見ぬ世界への知識欲と征服欲を抱いて、

軍人と科学者が歩調を合わせて、未知の分野へ踏み出す

 

劇的な進歩をもたらした科学革命の恩恵に、私たちはあやかって生活している

その過程で、もちろんオセアニアアメリカ大陸の先住民の殺戮、搾取は行われた訳で、

そのことを真摯に受け止めるなら、おいそれと喜ぶことはできない、

それは分かっていたことなのだけれど、

 

もっと私に衝撃を与えたのは、よくよく考えれば当たり前のことなのだけれど、

それぞれの地域固有の文化や、古の歴史や遺跡さえも、

征服者達によって見出されていたということ

 

そして、古の言語の研究によって、比較言語学が発達し、

インド・ヨーロッパ語族が見出される

その大発見が、共通の基盤を見出すことではなくて、

新たな人種差別と白人主義の格好の材料として、

歪んだ形で使われてしまった、ということ

 

そんな、と絶望感で、思わず膝から崩れ落ちそうだった

ヒトラーが声高に叫んだ、アーリヤ主義の種が、

こんなところに蒔かれていたなんて

 

愚鈍な私は、相手を支配するために言語を用いるなんて、考えたこともなかった

でも、プロバガンダも、ポピュリズムも、そういうことではないか

世論の理解しうる言葉で、分かりやすい答えを用意する、という点で

 

私は前、デンマーク語とグルントヴィの関係について読んだ時、

「言語が虐待されるなど、あってはならない」

と、酷くショックを受けた

このケースでは、人々が政治の言葉を解することができず、

アクセス不可能だったから、問題が生じていたのだ

 

私は、世界中のことをもっと、知りたくて、

世界中に転がっている、諸問題が、願わくば良い方向に転じればいいと、

そういう意識で、私は今、言語を学んでいる

 

今思うのは、どこで、私と彼らの間に、ベクトルのずれが生じたのだろう、

なんてことではなくて

 

だって、私が正しいとは、全然限らないじゃない

彼らだって、自分が間違っていると思って、そんなことをしていたはずがない

そして、白人主義が台頭しているのは、つい最近のことだ

 

そして、文化主義は、人種差別の後釜となっている、という主張

「文化が違うから」という主張は、

「私たちの文化は優れていて、彼らのそれは野蛮そのものである」

という主張につながりかねない

 

現に世界で台頭し始めている右政党は、

そのような意見を旗艦にしているではないか

 

言語を理解すれば、互いの差が埋まらなくても、

そこにある差の深さを、知ることができるはずだと、

そうすれば、きっと互いのことを尊重しあえるはずだと、

それを信じて、疑いたくない

 

けれど、それさえも間違っていたとしたら?

 

そもそも、違いを定義することは、

(私は個人個人が、という文脈で使っていたつもりだけれど、

そう受け取られるとも、限らないのよね)

差別や暴力に繋がらないと、何が保証してくれるのだろう

 

私は、今の所、何者でもない一個人で、

世界中が結びついた今、力を持たない個人としての私は、

本当に羽虫程度の存在でしかなくて、

この問いをここで放流したところで、何にも反映されることはなくて

 

それでも、こうした問題に、ずっと向き合っていたいと思う

そこに生産的な意義がなくても、個人がなすべきことは、意外と多い

それが、現代社会なのかもしれないな