あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

11.12.2018

 

 

 

 

私たちには、それぞれ自我が芽生えているとして、

その自我以外のものを、一緒くたにに意識してはいないだろうか、と背筋を寒くする

 

だって、周りの環境には、確かにたくさんの人や動物、モノが溢れているけれど、

その境界を表しているのは、言葉に過ぎなくて

 

そして、言葉とはひどく恣意的なもので、

例えば言語が違えば、世界の見え方は大きく違う

 

そうした中で、どうして私たちは、

例えば周りの環境と物と人と、分けられている、と言えるのか?

 

確かに、身近な人はしっかりと「人間」として浮き上がってきて、

しっかりと認識している、そう思うかもしれないけれど

 

それ以外の名前さえも分からない通行人は、

視界に入ってきても、背景の世界になめらかに溶け込んでしまっていて

 

彼らにも同じように自我があって、彼らの物語があるのだと、

私たちが瞬時に理解して把握できているとは、到底思われない

 

これが他者への無関心のはじまりだとすれば、

それはもう、解決しえない問題なのではないか、とさえ思ってしまう

 

私たちはこの現象を、どう捉えるべきなのか

 

 

 

昨日、大学の図書館で予約していた、

グルントヴィ関連の書籍がようやく届いたということで、受け取る

この忙しい時期に、また積読が4冊、どうしたら読みきれるのかしらね

 

この前学んだことを生かして、まずはフォルケホイスコーレについての本から着手

現代のフォルケホイスコーレの様子、グルントヴィとは誰か、

そして彼が作った後のフォルケホイスコーレの歴史について、という風に話は進む、

まだ、途中だけれども

 

よっぽど噛み砕かれて書かれているのだろうし、

原著ではないから、彼の方針を正確に言い表しているとは限らない、

それでも、やっぱり私は衝撃を受けた

 

恐れ多くも、彼と私の考え方が、恐ろしく似通っていたからだ

 

人々に必要なのは、自分の頭で考えることができる、ということに気づくこと、

自分たちの文化や言語をよく見聞きして、それから誇りを持つこと、

誰もが声を上げることのできる環境づくり、

そうすることで、やっと民衆はボトムアップ式に鍛え上げられた、

強い権利を手に入れることができる

 

そして、一番重要視すべきなのは、彼の精神の伝えている、

「自分たちの文化や言語を知ること」は、

いわゆる「ナショナリズム」とは全く別次元のものだ、ということ

 

それは国家に身を捧げる愛国心ではなく、

自分たちが育ってきた土地の風土や特色への愛着心

 

前に書いたかもしれないけれど、

私は日本という国に対する愛国心があるかと言われれば、正直、あまり無い

それでも、私の友人が考えるように、

「だから私は日本の外に出る」

という選択は、私にとっては納得のいくものでは無い

(そりゃ、決断や選択は人それぞれだから、とやかく言う資格はないけれど)

 

私は、日本に愛着心はない、

それでも、この土地に生きて、この土地で起きている問題を一番肌で感じている以上、

それと向き合わないことは、逃げることと同じだと、思ってしまう

 

一番問題意識を感じている人が解こうとしなければ、

その問題は、いつまでもがんじがらめにくすぶったままになってしまう

 

その責任は、誰が負うのか?

 

「誰が負うべきか」というイシューを過ぎてしまえば、

全く関係のない人々が、苦しむことになってしまうのだ

 

私は、何よりも自分の「公平性」、

それから、それが破られることへの怒りの精神を、最優先にして生きてきたし、

その判断を、何より信じているから

 

グルントヴィほどの偉大な人と、自分の意見が似ていた、そのことよりも、

私がひとりぼっちで考えていたことが、すでに人々に受け入れられていたこと、

それがなんというか、安堵を生んだ

 

私の考えは、そこまで間違った方向には行っていないのだ、という確信

自分で考えているだけでは、真の確証は、得難いものだから