あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

10.10.2019

 

 

 

今日は、例の集まりに誘われて、
本日ドイツ公開だった(らしい)"Joker"を見に行く

 

この映画の存在を知ったのは、
ヴィリニュスの街中に貼ってあった広告を見たとき

 

最初は何のことやらという感じだったけれど、
そのうちSNSなどにも上がってきて、
ああ、バットマンヴィランの話なんだな、と知る

 

まあ、全くアメコミに造作が深くないので、
まさか見に行くことになるとは

 

確かに描写は結構エグいシーンもあったし、
分かっていても飛び跳ねてしまうシーンがいくつもあった

 

でもこの映画をみて私が感じたのは、
“自己存在の否定・肯定”という極めて現代社会にも通じるテーマ

 

この映画は、
社会的弱者がいかに自己の存在を他人に認めてもらえるか、
反対に、マジョリティはは“ここまでしなければ”彼らを無視してしまう、という
私たちへの警鐘、とも取れるような

 

主人公のアーサーは、断じて普通の男ではない
失笑恐怖症に苛まれながら、自分の母親の介護を続け、
しかしその身の上ゆえ(だと思う)大道芸を続けている

 

それだけでなく、理由もなく周りの人の悪意を一身に受け続け、
ついに彼の性格は反転してしまう

 

もちろん、元々そういう傾向は持っていた、という方が正しいのだけれど、
でも、これは人々が彼を無視し続け、嘲笑し、
悪意を向け続けた結果、とも言えると思う

 

そして最終的に彼は、抗議を続ける労働者や貧しい者たちに
彼らの象徴として担ぎ上げられるのだ

 

犯罪行為や、大凶事を個人の責任にするのは、たやすい
けれどその背景には、きっと何かしらの
防ぐことができたであろう要因がある、と私は思う

 

日本のメディアは凶悪犯罪を報道するとき、
何かと個人のせいにしたがるけれど
その背景に何があるのか、
なぜそういう深みのある議論を展開してくれないのだろう

 

現実はサーカスではないのに
娯楽として消費しても、何ら世界は良い方向に進まないのに
目先の利益ばかり追った報道には、
つくづく溜息が出るし、腹立たしい

 

 

 

そしてそのあとはバディプログラムのパーティー
皆で向かったのだけど、
何故か皆ドイツ語を話せるはずなのに、
英語の会話の方が多く聞こえてくる

 

私たちが話していたグループの輪の中にも、
英語しか話せない子がいて、
そうなると必然的に会話は英語になる

 

もう本当に、悔しくて恥ずかしくて
言っていることは殆ど分かるし、
言いたいこともあるのに

 

全然、全然、言葉が出てこない

 

語順もドイツ語に影響されているから、
動詞を置く位置はめちゃくちゃだし、
現在完了と過去形の違いもドイツ語を喋っているときは気にしないので、
ただでさえ苦手だったのに、もっとめちゃくちゃに

 

自分が勉強しなかったのが悪い、それは120%確かで、
しかもそれから逃れたくて、ドイツ語に注力することを決めた節はある
それでもやっぱり、全く逃れるわけにはいかないし、
このコンプレックスは克服しない限り、
一生私を追って回るのだな

 

ああもう恥ずかしい、本当に
やらなきゃ、やらなきゃ、
原稿やら日記やら、やっている場合ではない、とさえ思ったけれど

 

昨日は夜、星空が見えていて、
夜道を一人、天上を眺めつつ帰っていたら、
少し気分が落ち着いてきて

 

焦って積んだレンガほど、脆いものはない
コンスタントに、一つ一つ、丁寧に置いていくしかないよね、今は