あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

本当にコロナだけのせいなのか。Sind wir in diese Lage wirklich nur wegen Coronavirus geraten?

 

 

あっという間に五月の末
ここにこうして再びやってくるまでの間、
おそらく私は、完全にデジタル疲れと将来への重圧にやられていた


オンデマンド配信は2倍速で見れるからいいけれど、
Zoomを通じて始まった授業に関しては、
受けている間はともかく、
終わった後の身体、精神への疲れが凄まじく
終わった後すぐに、何かを始める気にはならない

 

それでも最近学んだのは、
課題は出されたその日中、時間を空けずに勢いで終わらせた方が、
はるかに効率もいいし、気分も安定すること

 

かといって、必要なことは終わらせた、という安心感にかまけて
それ以外のことが手付かずになってしまうことも、しばしば

 

結局、こうしたことが重なり、
自己嫌悪に陥ることは、少なくないけれども

 

自分に課している量が多すぎる、とは決して考えたことはないし、
結局全然達成できてないから自分では全くそう思わないのだけれど、
それでも私は周りに真面目と言われることが多い

 

本当に真面目だったとしたら、どんなに良かっただろうに

 

 

 

さて、その間に色々、
この場所と私の関係性について考えていたのだけれど

このブログはドイツ留学一年前から書き始めていて、
ドイツに帰ってくるまでは、書き続けようと思っていた

 

そうすることで、自分の変化とか、記憶とか
自分自身の見えない部分を感じ取るための文章、
いわば定点観測のような、そういったイメージだった

 

けれど、まあ
こんな風に私はもう日本に帰ってきているし
更新も不規則になるだろう(増減はわからないけれど)
今後、ドイツ語関連のことを書くことも減る

 

だから、“日記”という体裁は、前回までで終わりにして、
エッセイ、とまではいかないけれど、
考えていることを深掘りするための場にした方が良いのかな、と

 

そういった心境の変化があったので、
タイトルのつけ方を、今回から変えることにしました
(独タイトルをつけているのは、うん、
単なる雰囲気というか気分です、特に深い意味はありません)

 

 

 

さて、この状況下、様々な人が
アフターコロナの世界について論じている

 

勿論、未曾有のレベルの大災害だし、
感染症に関して何も言えることはない
それでも私は、
“既にあった問題の深刻化が加速しただけ”
という見方に大方賛成だ

 

グローバル化に並行して、
ポピュリズムに代表される内向きの力、
そうして国境に走ったひび割れ

 

AIの登場とデジタル化の波は、
そもそも人の手を現場から遠ざけようとしていたし

 

手の伸ばせる範囲だけでなく、
どこにいる人とも繋がることのできるシステムは構築されたけれど
それと反比例するように、人との距離は、他人の存在感は、
遠ざかり、薄まってきているように思うのだ

 

医療の現場や補助金など、社会福祉面であたふたしているのも、
裏を返せば、今までそれだけ“別のこと”に予算を充ててきた、ということだ
例えそれが“国益”のためとされていたとしても

 

一度茹でられた玉子が、もう卵には戻らないように
元の世界にはもう戻れない、不可逆性がそこにはある
人との物理的距離も、社会の仕組みも