あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

30.4.2020

 

人と離れて、話さなくなるほどに、
その人自身の姿と、私の中にある印象の像が、乖離していって
人のことが、分からなくなっていってしまうのは、私だけだろうか

 

 

 

近頃、ふとしたことで、ふとしたきっかけで
人のことが頭に浮かぶと、
プラスな感情ではなく、かなりの確率で、マイナスの感情が浮かぶ

 

この距離の空いている間に、
ゆっくりとそうしたことを考える時間ができてしまって、
主観的な記憶を客観視するという
おそらく最悪の結果が生まれるであろう思考に陥る

 

結局、私は彼らにとってどんな存在なのかなとか、
どう考えられているんだろう、とか

考えても仕方がないし、
おそらく相手は一ミリも考えてない
被害妄想を膨らます、自意識過剰な自分がますます嫌になる

 

もっと最悪なのが、彼らと自分を比較してしまうこと
取るに足らない、しがない自分のことを
普段はそれでも誇りに思える部分がある、のに

 

比較して、足りない、と思う部分があるだけで
存在の全否定、というか

 

“このままの自分では、実は駄目なんじゃないか”
という強迫観念に襲われて
自分がどこに立っているのかさえ、あやふやになる

 

みんな違う人間で、着眼点も違う
何をしたいのか、何をするべきなのか

 

全て同じにはなれない、分かっているはずなのに
自分をネガティブな文脈で“異端”と感じた瞬間
脆い心がぼろっと崩れる

 

分かってる、
克服するには自分が強くなるしかなくて
もう、人に頼るべきトピックは
別の部分に移っている

 

だから、誰に相談することもない
そもそも、この相談をして、
人から見られる目線が変わるかもしれない
そのことすら、ほんとうは恐ろしい

 

私は、こんなに臆病だっただろうか

 

 


ただ、常に沈み込んでいるわけでもなく、
今日は暗い話から始めてしまったけれど
まあ、いわば躁鬱の繰り返し


ただ、きっと圧倒的にアウトプットが足りていないんだろうな
という漠然とした印象はあるので、
どうにか、ここを改善できれば、ましになるのかもしれないな

 

 

 

さて、最近はもっぱら、
論文のテーマを決めるために
付け焼き刃で国際政治絡みの論文を読み漁っていた

 

ようやく、不安定性の原因だった間隙を埋めるように
空白のカテゴリーに、知識がすっと馴染み始める

 

結局、私は断片的な知識だけ詰め込まれても
右から左へ流れていってしまう性らしい
記憶力、というよりも、
多分これは、記憶の仕方の問題

 

例えば具体的な名称が分からなくても、
人から一度聞いた話、エピソードは、その内容だけでなく
いつどこで聞いたのか、大体頭に入っている

 

そしてある記憶のテストでも毎回出てくるのだけれど、
やはり三次元視覚記憶が強いようで、
振り返ってみれば、確かに
大体の記憶は映像とともに蘇ってくる
(だからシチュエーションとかも鮮明に思い出せるのかも)

 

もう一つは、因果関係や、対置よって物事を記憶していること

 

多分、文法や数学の公式が
皆と同じようなペースで入っていかなかったのもそのせいで、
ドイツ語をある程度理解した今になって、
ようやく馴染む英語のルールがたくさんある

それは多分、言葉の文法的機能が一度、体系的に頭に入って、
少しは整然と整えられた棚の中に、文法の知識を並べ直しているからだ

歴史も同じで、
片側から見つめられた歴史を聞いても、
ただの暗記作業になってしまうのだけれど、
他国との関連性の中に事象を捉えることで、
初めて因果関係の際立った物語として捉えられる

 

 

 

まあだからこそ、
いろんな歴史が垣間見える小国外交を選んだのかもしれない
そんなわけで今考えているテーマは、
バルト海地域の協力について、だ


このテーマでもう一つみそとなるのは、
この間だと結構、民間的な協力も発達していて、
文化、教育などのローポリティクス分野における協力が盛んであること

 

ふと思い出して、自分の入ゼミ動機を見直す
そこには、“外交が下からの影響によってどう動くのか”を観察したい、とあって

 

まあ、国際政治や外交について、
テクニカルな知識がゼロだったあの頃と、
ある程度基礎の部分はできてきた今の思考の枠組みは
大分違うだろう、と思っていたのだけれど
案外、変わらないものなのだな

 

“変わらないもの”がある程度、自分の中にあるということは
いくらか、自分の心を落ち着かせる要因には、なる