あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

2.4.2019

 

 

また随分と、時間が空いてしまったのは、
色々な出来事が目まぐるしく動いていたのと、
単純に「書く」時間を他の作業に横取りされていたから

 

懐かしい友達と日帰り小旅行のようなものに出かけたり、
原稿にまたも追われていたり、
新しい職場での活動が始まったり、
本日のドイツ語のテストが刻一刻と迫っていることに焦りを感じていたり

 

そんなことをしているうちに、
あっという間に春休みは終わってしまっていて、
でもこの休み中、色々なことはしたけれど、
結局「…をしました」という形で言い切ってくれ、と言われれば、
戸惑いを隠せないだろう

 

色々な出来事を通じて、
私は最終的に、何が耐えられないのだろう、
何を諦めたくないのだろう、ということが
全く分からなくなってしまっている

 

適当なことは嫌いだけれど、それはそれと割り切って、
適当なことだけをしていても、人生楽しいのかもしれない

 

興味のないことには極力関わりたくないけれど、
周りに流されるままに物事を進めていけば、
案外それなりに充実した人生を送れるのかもしれないし、
仕事と割り切ってしまえば、何でもできるような気がする

 

とにかく、この一ヶ月ずっと思っていたのは、
私が周りから背負わされているように感じる「責任」から、
一刻も早く逃れたい、ということだ

 

勿論それは周りから背負わされているものではなくて、
自分がそう感じているだけのものが大半なのだと思う

 

でもどうしても、その責任を背負っているという自負がある状態で、
自分の娯楽を心の底から楽しむことができない自分がいて、
これは、どうしたらいいものか

 

「いつも生き急いでるね」と周りから言われるのは、
何でもかんでも自分の責任であるように、
自分の管轄内で起きた出来事のように感じてしまう性質のせいで、
急に就活というワードが現実味を帯びて飛び交うようになった周囲には、
甚だ、嫌気がさしている

 

それは多分、周りよりも恐らくは一年就活を遅らせる私が、
焦るべきタイミングを把握することができずに、
私だけが、宙ぶらりんの状態であるかのように感じているから

 

 

 

他者とは異なる、自分というたった一人の個人であることを願いながら、
同時に私は平凡でもありたかった

 

普段は見て見ぬ振りをしている感情が、鋭く言葉で表された時に、
綴るべき場所を私は昔から持っていて、

「どうせ誰でも良かったような人生を送るなら、
せめて平凡な人間でありたかった」

という2015年の自分の言葉が胸につっかえて、
思わず帰りの電車で泣きそうになる

これは非凡で優れているということを言いたいのではなくて、
身の丈に合った願いを抱いていない、という、
心中に渦巻いている疑念を、鋭敏に指し示す

 

本当に私は、一体どこへ向かいたいのだろう
あまり時間はないけれど、考えなくてはならない問題