あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

31.8.2021

昨日の夜、珍しく穏やかな気持ちを抱きながらベッドに入ったのに
ふと、8月が次の日で終わることに思い当たって
突風のような恐怖に襲われた

 

もう何ヶ月も前から、同級生は社会に出ているっていうのに
このモラトリアムが、一瞬で過ぎ去ったらどうしよう
将来、後悔しないように私は進歩できているんだろうか?

 

それにしても、よく考えたらまだ半年以上あるというのに
私の“終わりを恐れる症候群”はほとほと、治りそうもない

 

 

今日は立て続けに嵐のように色んな“予想外”が起きて
すべて、いい方向になんとかなったのだけれど、
やっぱり経験したことのない事態は怖い
ことさらに、お金が絡んでくるとなると

 

でも、こういう風にすぐに取り乱すのは、
あまりにもはしたない、ので
もっと落ち着いた、淡々とした人間になりたいとも思うのだけど

 

よく考えると、今日は実に色んな人と
コンタクトを取った日でもあった

 

Qoo10のメガ割で狙っているアイテム、
ほぼ日手帳のススメ、
卒論、それから大学生活に関すること

 

慌てたり、要領が悪いと落ち込んだり
頭が悪い、意気地がないと情けなくなったり
そんな瞬間が少なくとも5mmくらい、差し込まれない日なんてない

 

それでも、こうしてなんでもない日に
話しかけたら応答してくれる人がたくさんいるのだから
やっぱり私は恵まれた人生を歩んでいる

 

過去に目を向けるなら、
自分が人になにをしてあげたか、ということよりも
人が自分になにをしてくれたか、ということを考え続けたい


私のことだから、ひとたび風が吹いたら
ひゅうっと飛んで行ってしまいそうなので
毎日毎日気づいたタイミングで
心の中で呪文のように唱えている

 

 

29.8.2021

 

朝起きると、
昨日の一件で、祝福のメッセージを送った友人から返信が来ていた

それを読んで、私はまたしも自分の矮小さに気づいてしまって
でももうどうしようもないな、と小さく笑うことにした

 

だいたい、目立つことは成功と同義だと、私たちは思いがちだけれど
当事者にとっては、どうでもいい足枷にすぎないということが、よくある

 

いくら外からは華やかにみえたとしても
本人としては、不安定な足場を必死に組んでいる、
ただそのことしか頭にない、余裕がない

 

私的領域を公共にさらしているうちに、
それがいつの間にか公的領域に接続してしまい、
もはや境界がわからないという危機に陥る
自由がなくなる
私はそれを、一番恐れている
これは昨日の議論ともつながる問題

 

 

それでも今日は、
自分の進歩をかすかに感じられた

 

ランチで、いつも持っている感覚なら絶対にえらばないであろう、
でも食べてみたいという好奇心を、勝たせた

 

あるカフェの前を通りかかったとき、ショーケースの中に
まだ一刀も入っていない無垢なクリームの塊が、
どん、と上段の左端に鎮座していた

 

その傷ひとつない真っ白なシフォンケーキをみて
「ああ、これはしあわせの一つの具象化なのかもしれない」と感じた

 

だから多分、今日はいい日だったのだ

28.8.2021

あまり人のことをうらやましくおもわない方だ、と自覚していたけれど
本当はそうおもうことをダサい、とはねつけて
見て見ぬ振りしてきただけだ

 

  

いい加減に期限が迫っている論文構想の提出期限に急き立てられて、
今日はずっと、独論文に立ち向かいっぱなし

 

最近はこの作業が中々楽しくて
扱っているテーマについて少しわかってきたから、
というのもあるけれど、どちらかというと
やっと、ある程度ドイツ語が読めるようになってきたことと関係している

 

去年の今頃は、ちょっと長い関係文や再帰動詞に当たっただけで
とたんに文意を掴み取るのを難しく感じていたのだけれど
今はそこではなくて、
むしろ辞書には載っていない語彙のニュアンスでつまづくことが多い

 

自分の積み上げてきたものに、少し自信が持てるようになって
心の余裕もでてきた今日この頃

 

数時間ぶっ通しの作業の末、夕飯までひとやすみ、とTwitterを見ていたら
ある記事のタイトルに、もしかしたら、と閃いた
ひらいてみたら、やはり取材を受けていたのは友人だった

 

動悸がした
それは、知り合いが有名なメディアに発掘されて、
それを自分が自力で発見したことへの興奮だとおもった

 

でも、この時点でほんとうは、
動悸の種類がちょっと異様であることを自覚していた
けれど、気のせいだと、見て見ぬ振りをした

 

それを否が応でも自覚させられるきっかけになったのは、
その記事を紹介するやいなや見せた母親の、
「すごいすごい!」と嬉しそうな声、興奮した態度だった

 

とっさに、
「すごいことが、えらいわけじゃないよね?
というか私は、えらくなりたいわけじゃないよね?」
と、不安げな自我の声が、私の心を守ろうとした

 

自負が、その声をなかったことにしようとしたけれど
もう、手遅れだったし
その繕い自体が、馬鹿馬鹿しくて嫌になった
いつまで自分の心の中で、茶番を演じていれば満足なのだろう、と

 

 

実は昼間に、1時間だけ友人とチャットをしていて、
最近考えていたことを共有した

 

私は、自分の思いや考えを、
筋書きなしに人に披露することを極端に恐れている

 

相手にポジティブな反応が現れる打算がある程度たってからしか、
口にすることができない

「相手のため」と思っていたんだけれど、
これこそ、主体性を手放すための、
自分自身でも気づかないほどに巧妙なレトリックだった
 

こうして他人軸で生きている限り、
私は私のやりたいことを一生見つけられない
(そう、“実現できない”ではなくて、そもそも“見つけられない”)

 

どれだけ他人のために生きている、持てるものを投資したとしても、
結局本心を見せていないのだから「信用」されない

 

だから、一生選べないし、選ばれない人間になる

 

「本当にそうだね」と、
私たちは似たような部分で思い当たる節があった

 

 

他人の前で自分を出せないどころか、
「自律」と称して、
自分自身を全然、受け入れられていなかった

 

もちろん、私は人を傷つけたくないから、
これからも考えてから表現することは変わらない

 

けれど自分が傷つきたくないという理由で、
自我を殺して、腐らせて、
その屍体すら、愛想笑いでごまかすのは
もう、やめにしたいな

2.8.2021

先週、髪型をバッサリと変えた

 

ほんとうは、下半分をボブにして、ちょっとパーマを入れて、
耳あたりから下にグレーを入れて、
みたいな髪型にしたいけど

 

残念ながらわたしは春先から縮毛中で(そうしないと夏が乗り切れない)
カラーはうまく長く入らないし
かといって伸びてきている捻転毛気味の根元は、
いまの毛先の重みがあってようやくどっかりと腰を下ろしてくれているわけだし

 

髪型一つ
ままならないことばかりだなぁ、とおもう

 

結局、前髪を眉上で切って、
毛先15センチ程度にブリーチを入れて、
グレーがかった明るい色にしてもらった

 

結局、1、2回シャンプーしたら、
ただの黄金色になってきたけれども、笑

 

会った友人やインターン先の方々には
「その髪型いいよ!」とめちゃくちゃ褒めてくれて、嬉しかった

 

反面、母親の反応はやけに薄い
まあ、気に入ってはいないでしょうね


でもどこかで「それも意外と似合うね」くらいは
言ってくれないかなぁ、と心のどこかで期待していたんだなと気づいて、
そんな自分に苦笑を漏らす

 

 

 

さて、その会った友人だけれども
彼女はただいま夢を追うため、
かなり難しい経路をたどって、スタートラインに立つことまでは叶えた

私は彼女に、早く会わなければと思っていた
なぜならそのことで、あらぬ理由から、
いわれもない根拠で自分のことを責め立てる暗い感情を
掻き立てる要素になってしまいそうだったから

 

思い違いだよ、と、理性的な自分が珍しくも正しく諌めていて
そして会うやいなや、はじめてといっていいほど理性的な自分の正しさを感じた

 

やっぱり、使っている道具が似通っているだけで、
求める本質は全く異なっていた

 

話を聞けば聞くほど、
彼女自身や彼女が置いている環境に畏敬の念を覚えながら、
そこはとても、私が挑戦したいと思う土俵ではなく
私は過去の自分の直感的な理解が正しかったことを知った

 

私は、自分の言葉や文章をつかって
世の中や個人を変えたいとは、やっぱりどうしてもおもえない

 

そうではなくて、身勝手で無意味かもしれないけれど、
私は私のために、この行為をただ為していたい

 

その過程をあちらこちらで、いろいろな形で放流することで、
もしも誰かが大切ななにかを感じたり、捉えたりすることがあれば
それはそれで素敵なことだけれど
そのことを “私の言葉や文章のおかげ” だと考えたくはない

評価されたい、とおもうと
どうしても手元が狂う

 

「誰かのため」を第一の目的とすると
その傷みははやく、
空疎に成り果てることが多い

 

そこの線引きがしっかりとできていないから
ここ数年、内心で混乱する場面が増えたのだなぁ

 

結局原点回帰
調子を取り戻すには、まだちょっとだけ掛かりそうだ

 

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これはリトアニア、トラカイのガルヴェ湖のほとり
澄んでいておだやかな湖畔を散歩するのが日課、なんて生活を一度はしてみたい

 

 



 

 

 

22.7.2021

 

 

この場で文章を綴らなくなってから、長くて3ヶ月くらいのつもりだったのに
知らぬ間に、半年以上も経っていた
それほどにこの期間はもう、めまぐるしく過ぎていき
その速度と自身の矮小さが
深い谷底へと転がり落ちる、小石のようだった

 

私のこの先少なくとも数年へ、大局的な方向性で言えば一生へ
影響を与える物事が決まった

 

それまでは全然、うまくいかなくて
一生定期的に後悔して、もはやトラウマになっているようなヘマも重ねて
乱気流のような感情を抱えながら突っ切ってきた

 

そして今でも、この結果で満足していいのかと
猜疑心を覚えない、といえば嘘になる

 

 

 

私が手に入れたカードははっきり言って
自分にとってかなり良い条件を兼ね備えていた

 

「無いカード」から無理やり選んだわけではない、
自分がやりたいことが叶えられるセクターにいる、
努力次第でどんなポジションも手に入る上に
次のステップに進むことへも、あまり障壁がない
なにより「間違いがない」という点で、もっとも優れている選択肢だった

 

けれど、そこに全く妥協がなかったかといえば、
はっきりとは否定できない
かといって「ではすべてのカードの中から好きなカードを選んでください」と
仮に問われても、多分答えに窮する
どうしても欲しいカードが今ここに存在するわけでも、ない

結局、思考の末に浮き上がるのは、
条件の問題ではなく、自分の覚悟の問題だった

 

 

 

いつも「やりたいこと」と「やるべきこと」が一致せずに、苦しい思いをした
今選んだカードを引けば、その悩みの大部分は蒸発してくれると考えていた

 

でも、それはあまりに安直すぎる思考で
とってつけたような論理で他人は騙せても、
自分の本心は、まったく騙せない


私にとって自由に文章を綴ることは、呼吸に等しい
けれど、現実を直視すれば、
人一人の呼吸に値段がつくことは、ありえない

 

私にしかできないことがなんなのか
私が本当にやりたいことの輪郭が、未だにつかめずにいる

 

こんなときに、ル=グウィンが『ファンタジーと言葉』の冒頭で引用していた
ヴァージニア・ウルフの言葉が思い出される

文体って、全部リズムなの。
いったんリズムをつかんだら、間違った言葉なんて使いようがないの。
それはそうなんだけど、もう午前中も半ばを過ぎたというのに、
わたしはここにこうしてすわり、
イデアもビジョンも頭の中にいっぱいつまっているのに
それを外に出すことができないわけ。
正しいリズムがつかめないから。

 

ヴァージニア・ウルフ「ヴィタ・サックヴァル=ウエストへの手紙」
一九二六年三月一六日

 

私の頭の中でも
興味や関心や問題や痛みの数々が
異なる色の靄としてくすぶり、微妙なニュアンスを形作っている

 

でも、私はそれを人々と共有できる形で
外に出す方法を知らない


それはきっと、この世に未だに発明されていない、
生を受けていないんじゃないかとすら、おもう

 

肩書や活動は、インベントしないとね
もう少し若くて、すべての物事に怒り、絶望し、殴りかかっていた頃の
自分が、そういう風に皮肉に笑う

 

それなのに、
時間が経てば経つほどに、
濡れたインクのにじみが広がっていくように
不思議な色合いが開かれたかとおもえば、
うすぼんやりとした痕跡だけを残し
最後にはなにがなんだか、分からなくなってしまうような

 

どんどんと、自分の力が失われていくように感じる

 

22歳にもなって、大人になったら得られるとおもっていた
色んなことが手付かずのままで、未だ情けない自分のままだ

 

前よりも少しだけ、いろんなことを学んだら
角が取れて、まるくなって、人当たりだけがよくなって
単色だった靄が、複雑な様相を描き、
それはもはや、自分でも捉えきれなくなってしまった

「私の足元にあるものは、一体なに?」
そんな根源的な問いと、向き合うモラトリアム

 

 

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