あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

28.8.2021

あまり人のことをうらやましくおもわない方だ、と自覚していたけれど
本当はそうおもうことをダサい、とはねつけて
見て見ぬ振りしてきただけだ

 

  

いい加減に期限が迫っている論文構想の提出期限に急き立てられて、
今日はずっと、独論文に立ち向かいっぱなし

 

最近はこの作業が中々楽しくて
扱っているテーマについて少しわかってきたから、
というのもあるけれど、どちらかというと
やっと、ある程度ドイツ語が読めるようになってきたことと関係している

 

去年の今頃は、ちょっと長い関係文や再帰動詞に当たっただけで
とたんに文意を掴み取るのを難しく感じていたのだけれど
今はそこではなくて、
むしろ辞書には載っていない語彙のニュアンスでつまづくことが多い

 

自分の積み上げてきたものに、少し自信が持てるようになって
心の余裕もでてきた今日この頃

 

数時間ぶっ通しの作業の末、夕飯までひとやすみ、とTwitterを見ていたら
ある記事のタイトルに、もしかしたら、と閃いた
ひらいてみたら、やはり取材を受けていたのは友人だった

 

動悸がした
それは、知り合いが有名なメディアに発掘されて、
それを自分が自力で発見したことへの興奮だとおもった

 

でも、この時点でほんとうは、
動悸の種類がちょっと異様であることを自覚していた
けれど、気のせいだと、見て見ぬ振りをした

 

それを否が応でも自覚させられるきっかけになったのは、
その記事を紹介するやいなや見せた母親の、
「すごいすごい!」と嬉しそうな声、興奮した態度だった

 

とっさに、
「すごいことが、えらいわけじゃないよね?
というか私は、えらくなりたいわけじゃないよね?」
と、不安げな自我の声が、私の心を守ろうとした

 

自負が、その声をなかったことにしようとしたけれど
もう、手遅れだったし
その繕い自体が、馬鹿馬鹿しくて嫌になった
いつまで自分の心の中で、茶番を演じていれば満足なのだろう、と

 

 

実は昼間に、1時間だけ友人とチャットをしていて、
最近考えていたことを共有した

 

私は、自分の思いや考えを、
筋書きなしに人に披露することを極端に恐れている

 

相手にポジティブな反応が現れる打算がある程度たってからしか、
口にすることができない

「相手のため」と思っていたんだけれど、
これこそ、主体性を手放すための、
自分自身でも気づかないほどに巧妙なレトリックだった
 

こうして他人軸で生きている限り、
私は私のやりたいことを一生見つけられない
(そう、“実現できない”ではなくて、そもそも“見つけられない”)

 

どれだけ他人のために生きている、持てるものを投資したとしても、
結局本心を見せていないのだから「信用」されない

 

だから、一生選べないし、選ばれない人間になる

 

「本当にそうだね」と、
私たちは似たような部分で思い当たる節があった

 

 

他人の前で自分を出せないどころか、
「自律」と称して、
自分自身を全然、受け入れられていなかった

 

もちろん、私は人を傷つけたくないから、
これからも考えてから表現することは変わらない

 

けれど自分が傷つきたくないという理由で、
自我を殺して、腐らせて、
その屍体すら、愛想笑いでごまかすのは
もう、やめにしたいな