あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

15.9.2018

 

 

 

実は近頃、昔書いていたネット小説の更新を再開し始めた
いや、正確には更新ではなく、リライトを始めた段階なのだけれど

 

 

 

執筆を始めたのは、凍るように寒かった6年前の冬、如月
私が中学二年生の時だ

 

何もうまくいかない人間関係に、心はズタボロに切り裂かれていた
随分と性格もひねくれていて、見えている世界も狭かった
そんな時に唯一の心の支えとなってくれたのが、
文章に思いを乗せること、そこから垣間見える世界の数々だった

 

最初こそ細々とやっていたけれど、
中学生の間はそこそこコンスタントに続けられていたし、
ほぼ初めてともいえるファンタジー長編にしては、
私にしてみれば成功していた方だと思う、
……だって如何せん中学生クオリティですし

 

そんな大した評価が得られていたわけではないけれど、
私の見た目も性格も、人物像を全く知らない人から評価されるのは、
剥き出しの自分の実力が人の目に留まっているようで、嬉しかった

 

日常生活では体験できなかった、肯定感
私の全てを肯定された気分になった

 

前のブログで書いたけれども、些細な出来事の積み重ねで、
私の筆は一時期折れていた

 

wannaelfeternal.hatenablog.com

 

昔は、楽しくて楽しくてしょうがなかったことが、楽しくなくなる
正直、これを楽しんでいた時期の自分が死ぬほど羨ましかったし、
あの時の感情を、喉から手が出るほど欲していた

 

それでも向き合うこともせず、月日は経ち、
くすぶった感情を心の片隅に放置したまま、今年の夏休みに突入した

 

 

 

結果から先に言うと、私があの原稿を完成させたことは、
想像以上の効果を私にもたらした

 

勿論、あの原稿が完璧だったとは言わないし、後悔すべきポイントはいくつもある
多分、何かの結果を残すこともないし、他の誰かの目に留まることもない

 

それでも、一つの物語を完結させたという達成感は、
私の大きなコンプレックスを変革させた

 

自信がついた、というのとはちょっと違う
私は、私の「好き」に対して、安心と確信を得たのだ

 

私は「物語を描いています」と公に言っていいんだ、という安心
最後には「好き」を貫き通せる、という確信

 

思えば、私はいつも、好きなことや、自分のやっていることを人に言えないまま
何故か、ちゃんと分かっていなかったけど、今一つはっきり言えるのは、
その原因の一つは、自分が半端者だという、
劣等感に近い、くらい感情が渦巻いていたからだ

 

 

 

今、私は、文章を書くことの楽しさを取り戻し始めている
揺るぎない「好き」が回復しつつある中、
宙に浮いていた裸足の裏側が、私が生きているせかいの大地を再び感じている
ぎこちなくも、せかいからの確かな脈流が流れ込むのを感じる

 

 

 

もし、何かの拍子に不安定な宙ぶらりん状態に陥ってしまって、
上下左右、方向感覚をまるで失ってしまい、
独りぼっち、まるでせかいのみなしごのように彷徨うことになったとしても、
つながりを取り戻せば、私たちはまた歩いていける

 

そのために、私たちには「好き」という感情を指標に生きていくのかもしれない

 

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混同してはいけないと思うけれど、それでもやっぱり私は
「好き」と「信仰」は似ていると思う

 

その話も長くなりそうなので、また、どこかで