あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

25.6.2020

「正確に言葉に出せば通じ合える」という前提に立つと、
その前提が勝手なものだったと、思い知らされる瞬間がある

 

「分かってる」と口にするのは簡単で
分かってあげたいと相手が思っていることも伝わっていて
私だって分かってもらいたいと思っている
でも、伝わっていないものは、伝わっていないのだと思う

 

本当に絶望している先について認めてしまうと、
淵に落ちて戻れなくなってしまうから
他の可能性に理由をなすりつけている

 

相手の理解能力がないせいにしたとしても、何も解決しなくて
結局、私の言葉の選び方が悪いのか、と思うと絶望の度合いが減るけれど
なんでこんなにも不自由なんだろう、と
苦しくて悲しくなる

 

このまま、一生孤独で、
結局誰にも私自身は伝わらないんじゃないかと

 

すり抜けていくおもいと、
すり抜けていった時間が、ただただ惜しい

21.6.2020

格差社会について考えていて、
社会保障制度で「社会的弱者を救済する」っていう
その態度がそもそも気に食わない
というかおかしいんじゃないかって、ふと感じた

 

人間というのはそもそも社会的生物であって、
集団を形成することで、勝ち残ってきた、という説があるとする

 

だから、人はなるたけ大きな数の人間を取り込めるシステム、
すなわち「社会」を作り上げたのだと

 

それは詭弁だ、と私は思う

 

システムはほとんどの場合、多数の合意のもとに作られた試しがない
それは基本的に、強者の理論で組み上げられるものだ

そもそも、人間の能力には個体差がある
例えばシステムを作るのに長けた才能を持つ人もいれば、
全くそれとは関係ない才能を持っている人だっている

 

けれど、「社会」という前提がそもそもあるからこそ、
必然的にそのルールの中では強者・弱者があらかじめ、決められている

 

人間の存在そのものが平等であったとしても、
社会の中で完全に平等に扱われる可能性というのは、無に等しい
だって、社会とは秩序という名のルールでできており、
秩序とは序列をつけることに他ならないから

 

私は、人間世界が無秩序になればいい、
ということを主張したいのではない

そうではなくて、社会保障制度とは、
一般的に見なされているような、
強者が弱者に与えている「情け」なんてものではなくて
ある一定の能力を持った人たちが、ルールを定めて、社会を作った
「強者」が強者としてあることを「弱者」に乞うための、
一種の「免罪符」であると考えられなければならないのではないか、と思うのだ

 

これは極端すぎる議論であることは、分かっているけれど
それでも私が鼻持ちならないのは、
「強者」のグループに含まれている人間の中に、
あまりにも選民思想が強い者が、あまりに多すぎるということ

 

それは露骨な形で現れている部分だけを言っているのではない
勝手に作ってきたルールを押し付けて、
即「社会」に貢献できる、役に立つ人間だけを評価したがる
この世の中自体に、私はもう辟易としているし、絶望すら感じる

 

社会で役に立つか立たないか、確かにそういった指標はあるだろう
だからってそれを人間個人の価値判断と同一視する人間が、多すぎる

 

そんなことだから、格差は広がる一方で、
数値上は豊かであっても、
全然豊かさを感じられない人々が増え続けているんだと、思ってしまう

 

「弱者」は、社会的地位があるかどうか、経済力があるかどうかではない
それはちっとも、本質的な部分ではない(但し、実質的な部分ではある)

 

最終的な「弱者」というのは、
人類が築き上げてきた「社会の大いなる流れ」に取り残されていく人たちだ
この社会の中で生きていくことに対して、
全く、意義を見出せない人たちのことだ

 

私はそうしたことを考え続けていきたいのに、
世の中はどうでもいいことにばかり
あくせくしているな、と思ってしまうばかりで

 

でもこんなことも、きっと、社会にマトモに出たことすらない、
学生の戯言に過ぎないのかもしれない、と思って
どう解釈したらいいのやら、悩むばかりだ

19.6.2020

ふと、自分がこれまで抱えていたもやっとしたものに対して
答えがすっと浮かんでくることがある

 

なぜ、最近こんなにも
少し込み入った話をするとき、言葉が出てこないのか

 

この歯がゆさは、ここ1、2年ずっと続いていたスランプのようなもので
知識が足りないからだ、とか、慣れない言語で話しているからだ、
そう思っていたのだけれど

 

認識も、仮説も、全く間違っていたんだな

 

 

 

要するに、私には
意見があるようで、まるでない

 

私が今まで“自分の意見”だと思っていたものは、
周りに浮かんでいる考え方を“総括・折り合い”をつけたものに過ぎなくて
私の中から表出してきたものでは、決してない

 

ずっと、自分の知識が足りれば、能力が足りれば、
その時に、明快な答えが出せるのだろう、となんとなく思っていた
けれど、そもそもそれは“答え”があればの話で

 

私は負けず嫌いというより、要するに、
誰か、何か別のものに論破されたくないだけで
それは私自身が否定されるということももちろんそうだけど、
全ての存在の承認を得られるような
完全無欠の存在を、どこかずっと信じているのだと思う

 

そしてそれが私にとって、
枠組みや思考方式に異常にこだわる理由なのだろう
生まれてこの方、
この独自の方程式を磨きあげることだけに拘ってきたんだと思う

 

いくら論理的に考えられたとしても、間違いはないかもしれないけれど、
それは自我じゃないし、全く、“答え”には値しなくて

 

だって、数学の試験でも、
公式だけを書いて、解くのを放棄しているようなものだから

 

思えば、私は昔からそうだ
メゾットだけ勝手に考えて、それに従っていれば間違うはずがない
だから、結果を見るのをいつも恐れていた
結論を、出したがらない性格だった

 

例えば、試験のために頑張るのは、馬鹿げている
もっと広い視野で見ないといけない、
だから、関係ない範囲でも、自分の興味に従う

 

でも、それじゃあ他人から問いかけられた時に、
何故、どうして、どうやって、全て答えられない

 

 

 

どうしてこうなったのか、原因は一つだ
全てを創作のために、繰り返してきたから

 

そして私の創作の目的は、無意識だったけれど
いわば「創造」という行為プロセスそのもので、
人に思考の選択肢を与えることが目的あって、
答えを与えることではなかった

 

興味があったとしても、
その興味は果てしなく広いから
もはや無に等しい
他の人に説明することは、多分不可能だ

 

そして誰かのために、答えを出す必要性なんて
本気で考えたこと、なかったんじゃないか

 

こう打っている今も、
本当の意味で、答えをだすことの重要性を、はかりかねている
つまり結局、納得できないままでいる

 

そりゃ、他者と生きていく上で
何かを共有することは大切だ
けれど、それは人生の目的になりうるの?

 

私の生が私自身で完結するなんてありえないのに、
傲慢さは分かっているのに
私はどこに目標を置いて生きているんだろう?

 

18.6.2020

あっさりと、タイトルをつけない方向に舵を取ることに変えた
というのも、理由は二つあって

 

一つは、タイトルをつけようとするとどうしても、
無理にでも一つのテーマに終着させようと躍起になるから、
取り止めのない内容が零れ落ちてしまう

 

だから、日記を書くということに、変に重みが増してしまい
けれど、重たいカチッとした文章をまとめる気にもなれず

 

と、文章を書くこと自体が次第に億劫に感じられて、
ある意味“不自由さ”を感じるようになってしまったこと

 

二つ目は、一つ目と関連するけれど、
できるだけ些細なことでもしるべをつけておいて、
定点記録をしたほうがいい、という結論に至ったこと

 

何故かというと、今、私は就活真っ最中で、
それ以外にも色々やるべきことはあって、
色んなことを毎日思っては、思ったことを忘れてしまって

 

改めて、自分の中で大事にしていたこと、
私自身の軸、舵取りが曖昧になってしまっていることに
大変な恐怖感を覚えている

 

せめて、心が辿ってきた航路の手がかりになるように
そんな思いで、慣れきったやり方に戻すことにした

 

けれど、もし何か言いたいことがあったら、
また、唐突にタイトルをつけたりするかも

 

まあ、別に自分のためにやっていることだし、
厳密にやらなくても、いいか、とあそびを与えることにしました

 

 

 

さて最近は、いつまでたっても見通しがつけられないスケジュールに
はらはら、おろおろしている

 

本当は夏、別のことに専念する予定だったけど、
いかんせんこの状況では余計に、
早く動いた者が勝機を掴む、ように思われる

 

だから、インターンもいくつか申し込んでいるのだけれど、
情報交換をする相手もいないし、
出ているのか出ていないのかよく分からない情報、
結果が出るまで次の日程もまるきり分からない
それが、いくつもいくつも重なる

 

自分が何か抜かしてしまっているんじゃないか、とか
これでも出遅れているんじゃないか、とか
どういうイメージをしておけばいいんだろう、とか

 

夜、ベッドに入るたびに、
就活のこと、自分自身のこと、ドイツ語のこと、論文のこと
ぐるぐる、ぐるぐる、未だにうまく寝付けない

 

そんな中、昨日寝る前にふと、携帯を見たら、
友人から告白じみたメッセージ

 

なんのことやらと思ったら、
冬に留学を取り返すのを諦めます、という報告と
「あなたと大学で出会えてよかった、大好き」
といった内容

 

唐突すぎて、でも彼女はいつもそうだから、
笑ってしまったけれど
でも、私も同じ気持ちだったから、
嬉しくもあり、何より安心した

 

たくさんの人とつながっている、ことは求めないけれど、
いくつかの心の拠り所に邪険にされたら、
私はもう立ち直れないような気がする

 

来年になって、就職する人もいれば、
私と同じく大学に残る人もいる

 

今まで通りの環境は、
どうやっても帰ってこない

 

いつかばらばらになることは、分かっていたけれど

 

前にも「引きこもるほど、思い込みが激しくなる」
という話をしたと思うけれど、
このタイミングで、この言葉をかけられたことには
ほとほと、救われた

 

私だって大好きだよ、
早く会えたら、いいのにね

 

 

能力主義に基づく切り捨てを正当化するな。Meritokratie kann keine Begründung werden, um abzuwerfen.

 

こうした流れも踏まえて近頃では、
YouTuberやインフルエンサーの存在感が増してきたり、
企業も新しい人々に対してプラスワンの価値を求めるようになってきた

 

究極に言えば、“機械や既存のものに代替が効かない存在”とでも言おうか
“個人が企業を凌駕する時代になってきた”とも言われている

 

従来は年功序列・終身雇用、
若者は“企業の中で育ててもらうもの”だった日本では、
確実に真逆とも言えるような方向性へ向かっている

 

 

 

しかし、私はそれに対して怒りを抑えられない
これは、新しい欧米的なシステム、見方を取り入れた結果かもしれないけれど
大学にいるうちに“就活”というフェーズの中で勤め先を見つけて、
卒業したらさっさと社会に出て働く、
そんなおかしなシステムを採っているのは、日本くらいのものだ

 

実質三年生の春から就活は始まっていて、今後さらに早まると思われている
こんな環境下では大学で学んだことが軽視されるのはある意味当たり前だ
日本の学問水準が下がる一方になっていくだろうことは否めない

 

時間のない中で、インターンシップで実践的なことを学ぼうとしたら、
休学するか、授業をサボるしかないけれど
未だに日本では、休学するというと好奇の目で見られることも少なくない

 

結局何もかも、楽して良い人材が欲しい、と思う
企業のエゴというか、もっと主語を大きくすれば日本社会の構造の問題だと思う

 

 

 

まあ、話を戻すと、こうした中では、
誰しもが“プラスワン”の価値を持つこと、
そして“セルフブランディング”の能力が求められる

 

こんなの、ライフワークに設定したって良いような難題だ
それを、20そこらで完成されることを求められる

 

問題は、この二つができなければ良い勤め先を見つけられないどころか、
将来的には全く職にあぶれる可能性が否めないということ、
そしてそうして途方にくれた若い人々を、
この社会は誰も救ってくれないだろう、ということ

 

 

 

違うだろう、と私は思う
問題は、いかに効率よく金を集めるかじゃなくて、
本当に求められているのは、
どれだけの人がちゃんと生活していけるか、
そういった社会のキャパシティだろう

 

 中には、自分の中に
そうした価値を見つけるのが難しいと感じる人もいる
全員がインフルエンサーになれるとしたら、
もうそれは果たしてインフルエンサーと呼びうるのか

 

そもそも、生まれついた環境次第で、
そうした発想を得る機会を得られない人だっている

 

こういう、いわば取り残された人々を出さないために、
安心して暮らしていけるように
“社会”というものは発展するべきなのではなかったか

 

能力がなければ、切り捨て、なんて
教育の再生産のことを考えれば、立派な差別だ

 

 

 

見直すべきことはたくさんある、
全てがうまくいくなんて、私も思っていない

 

しかし、私は少なくともそういったムーブメントに加担したくないし、
将来的には、人々がもう一度立ち上がっていくための原動力になるかもしれない、
そういうものを世の中に放流できたら良いな、と思うのです