あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

7.1.2021

昨日は深夜3時まで、
大親友と久々のオンライン通話

 

最後に会ってから一ヶ月しか経っていないのに、
主に私の周りであまりにも物事が
目まぐるしく動きすぎて
思わぬ時間まで、もつれ込んでしまったのだった

 

そんな楽しい時間を過ごしたおかげで、
今日はきっちりとフラグを回収するように寝坊

 

ゼミでの写真撮影は、
来週対面で会う時に行う予定だったのだけれど、
緊急事態宣言が出そうな時勢を考慮して、
急遽本日行われることになったのだった

 

記念写真となれば、
流石にノーメイクで行くわけにもいかず
いやはや、よく20分で支度が間に合ったものだと思う

 

結局わずか30分のためだけに、
1000円近い交通費を払ったわけだけど、仕方ない

 

帰り道、友人の一人と途中まで電車が同じで
その時に、教授から聞いた話などをシェアしてもらった

 

曰く、
「最近の若い人は、短期的な目標を設定して達成することができても、
そこにビジョンが伴っていない人が多い、だから大成できない」
とのこと

 

その友人は、まったく非の打ち所がないと言っていいほど、
素晴らしい人間だと私は思っている
けれど、その指摘は彼女に深く刺さったらしい

 

大学生の間、彼女は本当に色々なコミュニティに所属して
数々の挑戦へ足を踏み入れてきた
けれど、その忙しさの中で、
本来、行動の指針となるべき長期的ビジョンを
考えることができていなかったのかもしれない、と言った

 

そして今では、元々そういった野心を持つタイプではなかったのだけど、
やっぱり色々なところから影響を受けて、
仲介者の立ち位置に甘んじるのではなく、
「創る側」に立ちたい、と思ったのだそうだ

 

私は、といえば、近頃、
ベクトルは違うけれど
やっぱり、「創る」ことを辞めることは、
生きがいを失うことに等しいのではないか
という結論に至りつつある

 

昨夜のオンライン通話でも、
もっとプライベートな反省からも判明したことなのだけれど、
私は「他者に話を聞いてもらいたい」という思いが、
人一倍、強いのだということが分かった

 

思えば、当たり前の結論かもしれないけれど、
その究極の形が「書くこと」で

 

如何なるやり方で、人に読んでもらうか
私の話を聞いてもらえるか
源泉は、そこだったのではないかと思う

 

ほんとうのところ、全然自信はない
もちろん、書くことで食っていけたり、
それが世間的な評価を得られるとは、
全然思えないのだけれど

 

それでも、それをキッパリ辞めるというのも、
ネガティブな逃げ、であるように思うし、
そもそも大学に入ってから常に考えてきたのは、
「書く」ための知識を、いかに吸収するか、ということではなかったか?

 

そしてもう一つ、
今日ふと頭に閃いたのは、
何も無理に「一つの自分」になろうとしなくていい、ということ

 

就活の流れの中で、
自己分析、をして、自分を深く見つめようとするほど、
過去の自分と今の自分の乖離に気づいて、
その真偽を確かめようとしてしまっていた

 

けれど、そんなことは無意味で
矛盾した要素、全てを抱え込んだ、複雑な性格こそが、
私の持ち味

 

だから、より他者に寄り添うことができるし、
そうやっていつも、少しでも誰かのためになればよいと、
そんな願いも込めて、「書き続けてきた」のだ

 

だから、どんなに自信がなかろうが、しんどかろうが、
多分その手をとめては、いけないのだと思う
私が自我と他者との関係を、見つめて、保っていく
そのためのライフラインでも、あるみたいだから