あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

25.11.2020

選考の過程で、Webテストを受けさせられるたびに、
自分の性格検査の選択肢に、むむ、となる瞬間がある

 

根気強いか、飽きっぽいか?
これは散々私の中で内なる自分と協議してきたことだけど

 

確かにこの四年の間、
無意味とも思えるほど愚直にドイツ語を頑張ってきた、
中高でも六年間同じ部で、
別に好きでもないソフトボールを頑張ってきた
その前の受験勉強だって、
中々根気強くやってきたのではないだろうか

 

一方で、私はバイトも年単位のスパンで
コロコロと変えているし、
結局書き続けているweb小説は未だに未完だし、
サークルにコミットすることもなかった、
数年愛し続けたコンテンツに、ふっと情熱が消えることもあった

 

こうした有象無象を、わずか数秒の間で分析して
結論を出すのは不可能で、
でも今まで強みとして挙げてきたことがあることも手伝って、
結局いつも「私は根気強い」ということにしている

 

そうしたことを、何気無しに考えていた今、
ふと私は「終わりを惜しく思ったことがないな」ということに
思い当たった

 

まあ、思い入れが大してなかった、ということもあるのかもだけれど
小学校も、中高も、
卒業前に「卒業したくない!」と喚いている同級生の方を
内心首を傾げてみていたし

 

流石に大学に進んで、たくさんのいい人々と出会って、
思い入れはできたものの、だからと言って
「卒業したくない!」とはならないのである

 

ディズニーランドや旅行に行った時も、
「この時間が終わらなければいい」なんてことを思ったのは
かなり稀で、
最後にはちゃんと、日常に戻る用意ができているのである

 

象徴的なのは、
週末や長期休暇に入る時、
周りが楽しそうにしている中で、
私も微笑みながら、しかし一人で「あと二ヶ月」と
カウントダウンを密かに始めていることだった

 

一体、これが何を意味するのかといえば、
不思議かな、自分に対する評価軸はもっぱら「他人軸」
であるにも関わらず、
時間に対しては、恐ろしいほど主観的なのだった

 

全ての時を、思い出という意味で惜しむことがないのは、
自分が過ごした時間に対して、
同じく形式的にピリオドを打っていない
全ての時間は、ひと続きで、
それは私自身と同義であると思っているからだ

 

つまり、小学校にいようが、中高にいようが、
大学生であろうが、ドイツにいようが、働きに出ようが
「私は私でしかない」のだ

 

時の流れについて、淡白すぎるほどに現実的な私は
思い出という魔法で美化された編集を、毛ほども信じていない

 

「青春」という言葉は、そういえば嫌いだった

 

その時代の自分が、キラキラしていなくてはならないと
また、キラキラするための行動を取らなければならないと
一種の同調圧力にさらされている、そんな気分だった

 

『想像の共同体』でも触れられている通り、
私たちの国家の構成要素は、想像によってつながりを維持しているに過ぎない
そしてこれは、国家に限らない
どんな集団でも、お互いのことを全て見通せない以上
想像の中で関係を維持しているに過ぎない

 

私は、そうした想像を、人ほどに信じられないのだと思う
だから、組織にコミットすることを難しく思う

 

主観的時間に敏感な私は、
組織によって我が時間を奪われることに対して、
激しい嫌悪と恐怖を感じるのだと思う

 

最近、確か朝日新聞の「折々のことば」の特集ページだったと思うけど
「人にかけがえのない時間を、与える」という趣旨の言及があって
私は、ハッとした

 

確かに、時は金なりということわざはあるけれど
時間は、お金では買えないし、
多分、私の中で何よりも大切にしているもの

 

それでも、それも他人に分け与えなければいけないんだ
それが、ほんとうのやさしさなんだ、と

 

時間に対して貪欲になり過ぎていた自分を、少し恥じた
けれど、自分と同じくらい時間を大切に思っている人がたくさんあることを知って、
少しだけ、安らいだ

 

ここから導出できる結論として
私は、自分の時間に対して何よりの価値を見出しており、
それはおそらく、
私であるという存在、世界観を形作ることをライフワークとしている

 

だから、そのライフワークに適合する行動に関しては、
愚直なほどに、根気強くなれるし

反対に、そのライフワークに反映されない、
ないしは破壊するものに対しては、
非人間的なほど、淡白で、簡単に手放してしまう

 

ということが、言えるのかもしれない

 

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どれだけ私が目にした美しいものを、美しく残せるか
それを、いくつかの人と共有することができるか
写真を取ることも、私のライフワークの一つに、おそらく入るのだろう