あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

5.4.2020

 

季節外れの雪の降る東京に、私は帰ってきた

 

まさか、次の更新が日本から、になってしまうだなんて
一つ前の記事を更新していた時の私には、思いもよらなかった

 

 

3月21日
・週末にドイツ全土で来週から取られる施策が決まることを知る

・隣の香港ガールから“明日からドレスデン市はAusgangssparreを敷く”ことが先ほど発表されたことを知る

・アラビアンパーティーの脇で、彼女といそいそと一緒にご飯を作って、食べる

 

3月22日

・週明け、何が発表されるかね、なんて呑気に構えていた日曜日

・夜、友人たちと(遠隔)Netflixpartyを開催する

 

3月23日

・昼過ぎに、あっさりと欧州の多数の国がレベル3に指定されて、崩れ落ちる

・切り替えて、友人と共に27日付の飛行機を予約する

・手続きなどを調べて、メールの下書きなどを確認する

・友人と電話する

・大学からのメールが気になって上手く眠れない夜を過ごす

 

3月24日

・これまたあっさりと、日本の大学から“帰国せよ”との通知

(ちょっと期待していた自分がバカみたいだ)

・役所に電話したり、メールのやり取りをしたり、荷物を引き取ってもらったり

・そのまま友達の家でお茶をする

・その後(本当はダメだけど)友人の家を訪問、一緒にチャプチェを作る

・その道中で別のアメリカ人の友人にたまたま会う奇跡

 

3月25日

・銀行の口座についてあれこれやり取り

・再びメールなどの返信

・もう一度友人を訪問(今回はキムチチゲ

・彼の前で号泣、その後まさかの寝落ち

(これがおそらく私史上で一番自分の気持ちを他者の前で吐露した時)

 

3月26日

・寝落ち前後にちょっとしたハプニングを起こしたことを知って、爆笑

(でも申し訳ない気持ちはある、改めてごめんね)

・もう一度友人に荷物を引き取りに来てもらう

・部屋中を掃除

・友人と隣の子を招いて、一緒に夕飯を食べる(香港料理!)

・一番仲の良かったチェコ人の友人と共に、三人で電話

 

3月27日

ドレスデン最後の日

・出る直前にギリギリHausmeisterに会えて、挨拶をする

・隣の子が荷物を運ぶのを手伝う傍、見送りに来てくれる

・例の友人も駅まで迎えに来てくれて、日本人3人でベルリンまで向かう

・ここで大変なアクシデントが起きて、私はその日の便に乗れなくなる

・一緒に帰る予定だった子とは帰れず、顔見知り同士の二人を見送るというカオスな状況に

・さらに友達の友達、つまり他人の家に居候させてもらうという奇妙なドイツ最後の晩を過ごす

 

3月28日

・日の昇りかかったベルリンのMoabitから、再び空港へ

・今度は何事もなく飛行機にも乗れて、フランクフルトへ

・待機している時に、友人から預かった“存在の耐えられない軽さ”を読み始める

・昼過ぎに搭乗、最後のドイツの景色を見届ける

 

機内

・眠ろうかとも思ったけど、恐ろしく眠れなくて、映画を3本見る

(“ティファニーで朝食を”、“マレフィセント2”、“蜜蜂と遠雷”)

日本海上に差し掛かったあたりで、再び咽び泣き

 

3月29日

・検閲に5時間は待ったけれど、短い方だったし、そんなに辛いということもなかった

・母親の出してくれた車で帰宅

・満開の桜に牡丹雪

・帰ってきて初の仕事がまさかの雪かき

 

 

 

そんなこんなで帰宅して、今に至るのだけれど、うーん
今はなにを書いたら、いいのやら

 

今回の大流行で考えたことを
みじかく、まとめると、
“人の話を聞かない人の、多さ”だろうか

そして自らもその一員であったし、多分その一員であるということ

 

もっと早く、人々が正しい声に耳を傾けて、
目先の自分の利益を優先させるような、勝手な判断をしなければ
このようなことは、起きていなかったのかもしれない

 

私の留学なんて、ほんのちっぽけな事象で、つまり、
“どうでもいいこと”に分類できると思う

 

けれど、本当に多くの人がこの疫病で亡くなっていて
残された人は、どこに怒りを向けて良いかもわからない

 

身体的死だけではなく、
食いつなぐ生業を失っている人も信じられないほどたくさんいて
流行が終わったとしても、こうした人々の連綿と続いてきた生活は、
もう二度と、帰ってこない

 

根本的原因は人ではないかもしれないけれど、
これは明らかに今や、“人災”の様子を呈している


SNSなどの発達により、私たちが選択的に情報を得られるようになり、
その結果、勝手なフィルタリングで、
見たくないものは見ない
という行動・態度が蔓延しているのではないか、という意見を目にした

 

だとしたら、今回の流行は、
皮肉にも、現代社会の病魔を具現化して浮き彫りにしている、とも言えようか

 

 

 

私が日本海上で泣いてしまったのは、
たまたま、ふと機内の地図を眺めていて、
私がいた場所の位置を確かめた時に、
地図の上に、私たちが接していた大切な人々の姿を見た

 

その時、
ドレスデンから、東方のちっぽけな島国
その無機質な地図上の距離が、あまりにも遠くて

 

あんなにかけがえのない、大切だった日常を、
私は遥か彼方に置いてきてしまったのだ、と
突然、強く自覚したから

 

彼らとは、いつか、どこかで会える
強く結びついている、分かっている

 

それでも私が、
彼らのWohnheimで、
または、私のあの、一人で住むには広すぎた部屋で

 

ビールやコーヒーを飲んだり
ボードゲームで遊んで一喜一憂したり
だらだら喋ったり
一緒に料理をして、食べたり

あのなんと気さくで、見返りを求めない人々との、
気軽な、日々は
泣いても叫んでも、もうどうしたって永遠に帰ってこない

 

私のドイツで達成したかった目標とか、ドイツ語とか、
そんなことは、どうだっていいよ
そんなもの、私の努力と本気度で、いくらでも取り戻せる

 

でもね、
あの日々だけは、絶対に帰ってこない

 

あれだけは、もう
どうしようもない力で、奪われてしまったもの

 

そして、状況が数ヶ月で好転しても、もう戻れないのは、
大陸の遠い東の地からやってきた、私の宿命なんだよ

 

 

 

ただ、乗せられて運ばれていくしかない、飛行機の上で
私は閉めていた心をそっと開けて、
一つ一つの想い出、場面を取り出しては、
対する私の感情を確かめていく

 

そういう作業しかできなくて、
でもそうした作業はひどく、大切だった

 

“まるで、ドレスデンにいたことが、全て夢のようなの”

 

私はあとから、友人にそうしたメッセージを送った

 

“夢のように、尻切れ蜻蛉で
突然終わりが来て、日常に戻っていかなければならなくなったから”

 

でも、本当はぜんぜん、夢なんかじゃない


だから、一つ一つの記憶を、現実と結び付けるために
私の感情と紐付ける必要があったのよ

 

“夜”ということになっている機内で、
こっそり窓を半分だけ開けて、
闇から昇ってくる、暗い橙色の朝日を覗いた

 

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私がこんなに悲しくても、
人間だけがこの病に苛まれていても、
世界は変わらず、営んでいるなと

 

そのことに多分、
私の心はいくらか救われた