あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

29.1.2020

 

今日は、初めての試験

 

この歴史の講義は、史料以外には何も配られないし、
先生が一々板書をしてくれるわけでもない

 

だから、全て私の耳で聴きとらなければいけなくて
家に帰ってから録音を必死に聴き齧って
一回の講義の復習がそれだけで8時間に達してしまったりも、した

 

けれど、教授は本当に優しくて、
母国語ではない私に相当のアドバンテージを与えてくれた

 

特別、口頭試験にしてもらって
かといって喋りが得意ではない私は、
その旨を伝えるメールが来た時は、どきどきしたし

 

昨日の夜も、いざ真っ白になってしまったらどうしよう、と
少しだけ慌てふためいたけれど
でも、この講義のために
惜しみなく注いできた労力、時間のことをふと思ったとき、
今まで感じたことのない種類の自信が湧いて来た

 

これまでに、私はここまで一人で努力したことが、あっただろうか
誰の手も借りずに、(私からすれば)無理難題ともいえるものを、
必死に乗り越えようとしたことが、あっただろうか

 

いつもそばに、手を貸してくれる人がいた
だから、なんとなく、乗り越えられてきたのではないか

 

 

自分が完璧主義なのかどうなのか
分からなくなるときは、すごく多い

 

普段、適当なところは適当にほっぽっておくくせに、
妙にこだわりの強い部分では頑固になって
何物も寄せ付けまいとするような

 

そういった、自分でもよく分からない力に左右されることが
少なくない私の人生

 

それでも、“やり遂げた”感覚を肌身で感じられる瞬間は、
そんなに多くない

 

そのモードに入ると、ほんの些細なところでも
他者に甘えている自分を見逃すことができなかったから

 

 

結果は、合格
甘く見てもらってるから、当たり前なのだけれど
それでも、これまでで二つの単位が確定したわけで

 

この単位が日本で使えるかと言われれば、全く無用なのだけれど
それでも確かに“やり遂げた”という目に見える証は、どうしても欲しい

 

安心しきって、向かう先は本屋
来学期、スウェーデン語を取るかどうかを、真剣に悩んでいる
その参考書や他の辞書類を覗きに行ったのだけれど

 

急に、中高時代の自分のことを思い出す

 

常に誰かに見られているような、
評価の対象とされているような


電車でも、教室でも、
雑貨屋でも、自分の部屋でも
どこにいても、息苦しさを感じていた
制服姿の自分

 

そんな時期でも、本屋にいる時だけは
私は全く息苦しさを感じなかった
“ここは私の場所だ”
そう、心から思える唯一の場所だった

 

どんなに本から距離が遠ざかっていたとしても
本が立ち並ぶ書棚の前が、私の原点であって

 

それは並ぶ本の言語が変わっても
例えそれらを自在には読めなかったとしても

 

私にとってそれは、
世界のどこにたっていても変わらない“事実”だ

 

変化は大切だし、
物事が不動だとすれば、そんなに恐ろしいことはない、と
以前ここへ書き記したように思う

 

けれども、変化しない座標軸がどこかにあるからこそ
日々瞬く間に変わりゆく物事、そして自分自身を
息をついて、見つめられるのだと思う

 

苦しかったね、あの頃の私
よくここまで、逃げおおせてきたね
今、私を取り巻く環境、私自身をみつめなおして、思う

 

あの頃から、私の軸はそんなに変わっていない

 

けれど今にも折れそうで、時折からっぽの、
頼りない私の主軸を
ささえるための支柱を築くこと、中身を充実させること
その努力が、最近じわりじわり、と実ってきているのを感じる

 

選択に不正解、なんてないのかもしれないけれど
それでも私がひとり、こっそりと続けてきた何気ない試みは
ぜんぜん、不毛でも無駄でもなかったんだな、と

 

 

まあ、試験がひとつ終わっただけで
一番重たい試験はまだ残っているし、
ぜんぜん、気は抜けないのだけれど

 

今は疑わずに信じること
前に進むのみ、かな