あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

26.8.2019

 

 

 

夕方、開いている窓から激しい音が漏れていることに気づく
窓の外の木々が、ぐわんぐわんとしなっている
それは、久々の雨風

 

ぼうっと見ていると、
雨足はあっという間に強くなり、
大きな雷音が、遠くの空より轟く

 

夏の嵐、夕立
ああ、妙に昼間、汗ばんだのは
そうした空気がベルリンに流れ込んでいたからか、と

 

雨が入り込むのを恐れて、一度窓を閉じたのだけれど、
密閉されて、急にしんとした部屋が
妙にもの哀しくて、無機質に感じられたので、
少しだけ、隙間をあける

 

雨音のリズムは、心地よい
なんだか、色々な邪念が洗い流されるような

 

 

今日はどのプログラムにも参加せず、
近所のカフェで、
いい加減、進めないとまずい原稿に、取り掛かる

 

本当はPCを持っていたのだけれど、
充電が殆どないことに気づいて、落ち込む

 

軽くはないのに、昨日も今日も、持ち出したはいいけど
結局使わずじまいで
ただただ、肩の張りが無駄に酷くなっただけ

 

まあ、自分とは20年以上の付き合いなので
こんなことには、慣れたけれども

 

 

 

そんな中、カフェで軽く一悶着
そこは、水がフリーサービスだったのだけれど、
よく分からない男の人が、私の前で永遠に紙コップに水を注いでいて、
終わったと思ったら、カフェを出て行き、そしてまた入ってくる

最初は状況が読めなかったのだけれど、
店員さんの迷惑そうな表情に、ああ、と察する

 

そのカフェさんが位置しているOstkreuz駅は、
決して閑静な住宅街、という雰囲気ではなく、
少し、アングラ的、影の気配のある街

 

カフェ自体はアーバンだけれど、
店員さんもアーバンかと言われれば、どちらかというとアングラより

 

一度去ったかと思えば、また現れたその男に、
しびれを切らしたショッキングピンクの髪の店員さんが、
「もうこれ以上はないって言ってるでしょ!」とキレる
不服そうに男は去っていった

 

(私は飲んでしまっているけれど)
ドイツの水道水は、飲むべきものではなく、
水は買うことが推奨されている

 

そうじゃなくても、家のない人からすれば、
水を手に入れるのも、一苦労なのだろう

 

そして、それ見よがしに蛇口をひねる形で飲料水が出てくるカフェがあれば、
その水を飲みたくもなるのだろう
なんせ、30度越えのこの暑さ
そんな中でも、彼は長袖を着ていた

 

 

 

ベルリンは、大都市だ
けれど、すべての人が潤っている訳ではなく
多数の駅構内や、駅前には、
家のない人たちが、
空っぽのコップを手にしながら腰を下ろしている

 

また、「赤子がいるんです」と、
英語で助けを請うた趣旨の紙を見せつけられ、
お金をたかられることもある

 

先日、ついに逃れることができずに、
小銭を出そうとしたものの、
「札がいい」とねだられて、
若干イラっとしながら、1ユーロ硬価を押し付けた

 

何が正しくて、何が嘘なのか分からない
本当に困っているのかもしれない、
だとしても、
そもそもこんなやり方でお金を渡すことが正しいことだと、どうしても思えない

 

だから極力そうしないようにしていたのだけれど、
一度負けてしまった時、
その後半刻くらい、気分が優れないままだった

 

私が渡したのはたった1ユーロというけち臭い金額、
若干それに対する罪悪感とともに、
1ユーロ以上の何かをしでかしてしまったのではないかという、焦燥感

 

 

 

貧困問題というのは、実に根深くて、
様々な面から見ないと、
それも、目を背けるのではなくて、あえてじっと見ないと、
見えてこないものがある

 

東京にも路上で暮らす人々は沢山いるけれど、
こちらの路上に座り込んでいるのは、
老いた人々よりも、
パンクな出で立ちの若者が圧倒的に多くて、
空いた酒瓶傍らに、うなる目つきでこちらを見つめている
そして、国籍も様々

 

彼らがどうしてそんな生活をしているのか、
その根本原因を、分かりやすい何かに責任転嫁するのではなくて、
じっと、考えなくてはならない