あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

3.6.2019

 

 

 

夜、突然、感傷的な気分になった

 

引き金となったのは、いつまでも憧れ続けるであろう、
ある一人の人の写真を見てしまったからだけれど、
その背景にはおそらく、
昨日と今日で今後のことについて考える機会が多かったことがある

 

私は元来、ぜんぜん頑張れない人間だ
頑張るためには自分を納得させられる理由がいつでも必要で、
「与えられたからやる」とか「とりあえず従ってみる」とか、
そういう事情からは一抜けしたがるタイプ

 

良くも悪くも、
今の自分のままでは不満足だし、不足しているという欠乏感が常にあるし
どうしても、いつだって、ある“理想像”がなければ、生きていけない

 

それでも私が頑張ってこられたのは、
自分との距離感に関係なく、
“頑張っている人”の存在を感じていられたからだ

 

この頑張っている人、といって世間で思い浮かべる努力人の姿と、
私が思い浮かべている人の姿は、少しずれているかもしれない

 

上記から分かる通り、私は熱血漢タイプが大の苦手
結局そういう人たちって、
最初から自分に価値を認められる人たちなんだろうな、と
敬遠してしまいがち
それが良いとか悪いとかではないのだけれど、どうしても

 

 

確かに一つの物事に打ち込む姿は、人々の胸を打つものがあるんだろう
けれど私はどうしてもその裏に、
「結局誰かが補っているんだろうな、何かを」
と勘ぐることを止めることができない

 

それは今までの経験で、
私が“補う側”の人間であり続けたことが大きいけれど

別にそれが悪いことだとは思っていない、
いやいややっていたわけでもない、
ただ、自分にはそういう役回りに適性があると思っていたからやっていた

 

けれど、それでもたまに虚しくなる瞬間がない、とは言い切れない

 

そんな私が心を打たれてしまうのは、
複数の物事を並行して頑張っている人たちだ
あれも、これも、それも
どれも貪欲に頑張れる人たちだ

 

もちろん、彼らだってずっと聖人のように頑張っているわけではない、
切り取られたフレームの外には、多くの生活感が漂っていて、
それはただの人間と変わりないのだと思う

 

だから神格化はできるだけしないように心がけている、けれど
どうしたって、彼らのような存在がいることを信じなければ、
目の前に横たわる現実の苦しさに、向き合えない時だってある

 

そういうやり方をする人は、折り合いのつけ方を知っているから
何かを諦める痛みを知っている人たちだから

 

それでも彼らが選び取った選択肢を、
必死に伸ばそうと寝る間も惜しんで努力を重ねるその姿が、
私の精神を奥底から押し上げて、
もう一度立ち上がってみようかな、という気持ちにしてくれる

 

その姿に、もう何度も何度も救われている

 

変わってしまった人も、変わらない人もいる
身近な人も、そうでない人もいる

 

きっと私は彼らに感謝を直接伝えることは、ないのだと思う
恐ろしくて、おこがましくて、そんなことできそうにない

 

けれどもし、私の夢がだいたい叶って、
そこから彼らに出会う機会があったのなら
おそらくその時には感情の時効は切れているはずだから、
冷静に思いを伝えられるはずだから

 

その時に、ふわりと伝えられたら、それでいいのだと思う

 

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玄関先の、枯れかかっていた花
萎れていてもなお宵闇に存在感を放つその色合いが、
少しだけ私の目指しているものと重なった、ような