あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

29.5.2019

 

 

 

昨日から今日にかけて日付が変わる時間帯、

ようやく「レ・ミゼラブル」を観る

 

本当は、『二都物語』を読み切った直後に読もうとしていたのだけれど、

中々時間が見つけ出せず、いまに至る

 

とはいえ今だって、こんなことをしている場合ではないのかもしれないけれど、

まあでも、無理にでも時間を作らないと、いつまでも放置されたままになってしまうから

 

 

 

結論からいって、疲労感と焦燥感をおしてでも観るべき映画だった

 

全体のストーリー云々、というよりも、

個々の登場人物の抱える想いがあまりに澄んでいるから、突き刺さる

混乱の渦中にあったとしても、目の前の事柄にひたむきな態度をとる人々に、

涙が止まらなかった

 

それは、そうすることが美しいと感じたから、ではなく、

あるメッセージが全てのシーンで共有されていたから

 

私は無宗教だし、神の恩寵が云々、とかはもちろん思わない

それを口上に(あるいは他人の為に)善を働こうとする人々のしていることは、

偽善的だと思ってしまう時がある

 

けれど、この映画が表現しているのは、

受け取ることの幸せではなく、与えることの幸せだ

 

結局、自分が何を持っているかではなくて、他人に何を与えられるか

与えることでしか真の幸せは得られなくて、

人には人が必要だし、一人で生きていくことなんてできないのは、そういうわけだ

 

 

 

昨日、とても悲しい報道がなされた

あのような事件が起きても、

多くの人々は原因を個人の資質に求めて、

「どのような背景でそれが起きたのか」ということは考えないのだろうか

 

私はその背景を知る由もないけれど、

想像することは、罪ではないと思う

 

誰にも見えていなかったんだろうな、と思う

人が追い詰められた時に一番他者に求めるのは、

もはや「自分自身」を見つめてもらうことではなく、

「自分の抱えた苦痛」を認知してもらうことだ

 

知ったことではない、と多くの人が考えたとしても、

誰かに知ってもらいたい、分かってもらいたい、そういう風に思われながらも、

人知れず心の澱に沈んでしまった想いが、無視されてきた想いが、

これまでの世の中には果たしてどれほどあったのだろうか

 

そういうものを察知する度に、できるだけすくい上げていきたいとは思うけれど、

私にできるのは、きっとほんの一部なのだろう、

ふとした時に、無力さを日々噛み締めるばかりだな