あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

11.3.2019

 

 

 

この4日間の旅行を、静かに振り返る

 

そもそもの無計画さに加えて、色々な想定外もあって、

でも起きている時はずっと、

くるくる、動き続けているという意味では、

やっぱり私の旅行スタイルだなぁと

 

結局京都に来ているというのに、神社や寺の境内には入らず、

南禅寺水路閣だけは見に行ったけれど)

毎日起きるのは10時過ぎという自堕落さ、

ずっと市内の雑貨屋とカフェ、食べ物をふらりと訪れる、気まぐれ旅

 

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けれど、目的は全部達成したから、後悔はないし、効用も高い

というか、本来「旅」ってこうあるべきなんだなぁ、と

キリキリとスケジュールを詰め込み、狂いのないように計算しまくり、

観光してる間にも次の時間や交通ルートを考えて、

しかもその合間にも、日課が滞ってしまうなぁ、とか、

ここから帰ったらアレとコレをして、なんて考えてしまう

そして夜、ベットの上では頭も足も漬物石のようにずっしりとして、疲れ切っている

 

私が遊びを仕事のように捉えてしまうのは、いつも考えることを辞めずに、

普段通りのことをしてしまうからなのだなぁ、と

 

その点今回は一人だったこともあって、

考える量や人に配慮し、それを伝える手間もなく、

適当にしていれば良かったし、焦りもなかった

 

皆が旅行でいつも感じている気分は、こういう感じなのかしら、

真面目、というよりも、スイッチの切り替えが下手くそな私、

いつもこの悪癖をどうにかしたいなぁ、と思っているのだけれど、

今回は、ようやく何年かぶりに羽を伸ばせた気がします

 

 

 

ドイツ語とか、各種の勉強から、

それから日々のしがらみから、少し距離を置いた四日間、

変に力が入っていた部分の緊張が解けて、

結局、焦っても仕方ないのだなぁ、と感じた

休憩している自分に、最初は不安しかなかったけれど、

やっぱり常に休まず稼働し続けることは、人間不可能だ

 

できるだけ全ての物事に誠実でいたいし、正直でありたいと思うけれど、

人が傷つかないように、嘘をついたり、

または、自分のポリシーのために真実を語ったりして、

最近の自分はいつも心が磨り減っていた

もう何もかも馬鹿みたいだし、適当に流してしまえばいいのにと、

諦めかかったこともあった

 

それでも、やっぱりずっと続けること、努力をやめないこと、

それは間違ってない、と思えるようになったのは、

今回の旅の一番の目的、ある人の姿を目に収めたことだった

 

最初は、冗談ではなく、本当に怖かった、

あまりにも開いた差をそこに見てしまって、

私はその人の姿を見たら、絶望してしまうのではないかと思ったから

 

でも、現実は異なっていて、

私はその人の姿を、声を、所作を見て、

酷く安心した

傾き、ひび割れていた大地が、

すっと正常の状態に戻っていくような

 

苦しみながらも、何かと誠実に向き合って、

今、その積み上げてきたものの上に立っている人は、

もし、当人が不安定を感じていたとしても、

あなたはそこに今、立っている、

そういう風に、周りからは「確かに」見えている

 

そういうものに触れた時、

人は突き放されたように感じるのではなく、

むしろとてつもない安心感を覚える

それは、

確かな努力は、絶対無駄にはならなくて、

例えそれを自分が感じることができなくとも、

目に見えない何かの力を生む、と信じられるようになるから

 

向き合うことをやめることは、逃げることではないと思うし、

ましてや他人がそれを見てどうこう言う問題ではない

いつでも問題は自分の中にあって、

そうした時に、そこで何かを得る機会をうしなうことであるのは、確かで、

それを判断するのは自分自身だ

 

だからいい加減、他人の声や目線にいちいち囚われてしまって、

情けない気持ちを毎度引き摺ってしまわないように、

強い信念を、持ち続けたいものだな