あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

24.2.2019

 

 

悔しくて、悔しくて、

いらだちや、かなしみ、なんてものではない

 

 

 

私が否定されるなら、まだしも

私以外のものが不当に否定されているのは、耐え難い

 

そうした時に、私は相手が誰であろうと、自分の信念を曲げてまで、

反発心と反論を抑えることはできないし、したくない

 

悔しい、悔しい、私は悪くない、と呟きながら、

コンタクトの外れたぼやけた視界で家を出て、

最寄りのスターバックスに、向かった

 

 

 

こうした時の思考の順序は、こうだ

 

まず、何故不当にこんな思いをしなければならないのか、

本来正しいはずの自分の言い分は通らないのか、

と、悔しくて仕方がなくて、それはしばしば暴力的な衝動を伴う

 

そして、次によぎるのは意外にも、

家族外の周囲の反応

 

自分がそのことをもし話すとしたら、ということをシミュレーションしては、

その人から返ってくる答えを予想して、絶望するのだ

誰か、分かってくれないかな、という淡い期待と、

誰も分かってくれるはずない、分かられてたまるか、という気持ち

 

そうして周りの人の態度を一通り振り返って、内心勝手に散々非難を浴びせた後、

結局この解決し得ない問題を周りの人に話すだけ無駄で、

話して聞いてもらえたところで、その人の時間を搾取していることには変わりなくて、

それは私が一番忌避するものではなかったか、とため息をつく

 

だとしても、この感情を澱のように沈めて黙っているのが、正しいとも思えないし

そんなことをしたら、良からぬタイミングで爆発するに決まっている、

そういう人間を、今ままでにもたくさん見てきたから

 

 

 

いっそ、おおっぴらに同情してもらえるようなことをされていればよかった、

とさえ思う

 

人間として尊敬できない、最低な部分を日々見せられることは、

一生逃れられないという事実は、

同じ体験をしなければ、理解し得ないと思う

 

何より、その血が、

その忌み嫌ってやまないおぞましい血が、自分の半身に流れている

 

その拭えない、絶対的な事実、

同じように周りの愛おしい人達に振りかざしてしまうかもしれない、

私は人と関わらない方がいいんじゃないかとさえ思う、抗えない絶望感は、

尊敬できる親を持つ人には、一生理解し得ないと思う

 

だから簡単に、

「向き合う」とか、「受け止める」とか、

そういうことを言って欲しくないから

…だから人に言わなければいいんだけれど、私も

 

 

 

近頃、ネットが怒りの感情であふれている、という意見を垣間見る

 

そもそも、私の感情のベースは、怒りだ

だからこそ、そういう人たちの気持ちが、理解しにくいということは、確かにある

 

確かに、日々何に対しても怒ることのない人にとっては、

平和を害されたような気持ちで、嫌なのかもしれない

 

だとしても、その平和が「当たり前」ではない、ということに、

何故気づかないんだろう、と私は思ってしまう

 

 

 

私レベルの問題はともかく、

社会問題や、国際問題、

世界には「問題」と名のつく物事があふれていて、

その中で、戦争や死者だってたくさん出ている

怒りの声は、何も自分勝手な思いだけから発されているわけではない

 

「見て見ぬ振り」されていた、埋もれた問題が、

むしろ掘り起こされて、解決の機会を得るかもしれない

怒りの声が多くの人に届くというのは、そういうことだと思うから、

私はそれを聞いて、悪い印象ばかりを持ったことはない

 

もちろん、私だって明るい話題は好きだし、

そういうものを遠ざけて、問題ばかりを直視しろ、なんていうつもりはない

だからこそ、両者の重さは平等で、

どちらかを退けて通るなんてことは、あってはならないと思う

 

どうして平和で楽しい気持ちに基づく話題ばかりが、

もてはやされて、評価されて、

怒りや悲しみなどの負の感情から発される声が、

ただ嫌われて遠ざけられてしまうのか

 

その「見て見ぬ振り」する態度が、

多くの問題の解決を遅延させている、大半の原因だということに、

鈍感な人たちは、そろそろ気づいた方がいいと思う