あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

26.1.2019

 

 

 

一昨日、人生で初めて文系の論述で、「ああ、ダメかも」と思った

 

そこまで自信がないわけではなかった国際法で、完全にテンパってしまったのだ

 

まあ、試験を受ける前から予感こそあったのだけれども、

色々、後悔もするし、何より悔しい

 

でも、よく考えてみれば、

“初めて”という感覚は強いけれど、そんなはずはないのだ、とふと思い当たる

 

高一までには、論述問題で何度もしくじっているはずだし、

そもそも、私は論述問題が得意だったわけではなく、

毎日こつこつと、

文章を書き溜め、そして噛み砕いて消化してきたものが、

ようやく試験等でも反映されるようになったのが、高二

 

まあ、その形式の試験が増えたから、というのはあるかもだけれども、

それまでは本当に、ぱっとしないもので、

よくもまあ、皆は私のことを「文章を書く人」

として認識しているなぁ、とも思う

(多分、それはSNSのせいなのかもしれないけれど)

 

どちらにせよ、落ち込む必要があるし、反省する必要がある

 

私が比較的こうした問題を得意としてきたのは、

私が元々得意だったからではなくて、

それは私が努力を積み上げてきたからで、

ちょっと最近の私の態度は、過去の自分に対して、あまりにも失礼だった

 

とはいえ、今は完全に自信を喪失していて、

ひとつのことで躓くと、次から次へと芋づる式に不安は露出してくる

 

留学のことも、ゼミのことも、ぐるぐる

何もうまくいかなかったら、どうしよう

すべてが脅威で、恐ろしくて、

もう、前を向きたくない、動きたくないよ、朝が来ても

 

 

 

こういう時は、原点に立ちかえる

 

 

 

結局、いつだって私は自分の「好き」を基準にしてきた

 

その「好き」とは、好意という意味とはまた一線を画するもので、

つまり、なんというか、

しっくりくるというか、心地よいというか、

私の身の丈に合っている、と感じるような

 

確かに、私の掲げる目標は、

あまりに大きくて、理想的で、空想じみている

 

だとしても、この目標は、この“物語”は

絶対に、絶対に、私以外が主人公にはなりえない

 

そう信じて、今まで走ってきた

読む本も、論文のテーマも、学部も、言語も、

何もかもを、私のファンタジーだけに捧げてきた

 

でも、やっぱり、

「選択」するだけじゃ、全然足りなくて、

そんな当たり前のことに今更気づくなんて、

私は本当に大馬鹿者だな

 

これまでの人生では、

「選択」=「行動」

の方程式が、ある程度成り立っていた

 

あるいは社会的制度環境の圧力によるものだったかもしれないけれど、

私の責任感によるものだったともいえるし、

そういう自分を何よりも信頼していた、

決断したら、投げ出さない自分を、

投げ出すことの出来ない自分を

 

でも、鋼のように鍛えたつもりだった、私の責任感も、

かつてない不安と自由が押し寄せると、

こうやって簡単に、折れてしまうんだな

 

ここ最近、

意味を求めて、理由を求めて、

そういった、内的に見えて外的な体裁ばかり追い求めて、

積み上げることを躊躇していた自分に、ツケが回ってきたんだな

 

 

 

そして、時間の流れは容赦ない

毎日、3年生が始まってしまったら、と怯えている

まだ、試験期間すら終わっていないのに

 

脆くて、腐りゆく自分が恐ろしくて、

何もかも、抱えているものを打ち捨てたくなる衝動に、1日3回は襲われる、

いつから、こんなに臆病になってしまったんだろうと思うくらい

 

それでも、ここまで来てしまったのだから、

私は、私の「好き」を求めるしかない

 

例え、それがどんなに儚く脆い飛沫だったとしても、

白い蝶の死骸だったとしても

 

“Always do what you are afraid to do”

恥ずかしいくらい、今もこれからも、

何度でも、何度でも刻む言葉