あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

22.7.2019

 

 

 

日常を振り返る余裕もないほど、
せわしなく過ぎて行った、この二週間

 

相変わらず読み進めなければならないドイツ語の本、
レポートが3本、果てしない範囲のテストがいくつか、
ゼミの課題と、それから飲み会

 

そして本格的なテスト週間は未だ、訪れていないけれど、
それも終わってしまえば、多分あっという間に旧大陸に飛ばされる

 

 

 

正直先週一週間は精神的にびっくりするほどしんどくて、
これから先の未来のどの日付をとってみても、
心から楽しめることなんてないんじゃないか、なんていう
底無し沼のような不安に沈められていた

 

それが吹っ切れたのは、
ある程度のタスクが片付いて、
ショート状態の思考回路がどうにか、戻ってきてくれてからだ

 

人間、追い詰められると要らない心配ばかりするし、
要らない心配ほど、本当に不要なものはない
そう行ったものは解決に向かわせてはくれず、
その足取りの重い枷となってしまうことが大半だから

 

だとしても、なかなかその錠前を開ける鍵を
自力で見つけることができないのが、難儀なポイントなのだけれど

 

 

 

とにかく、今は水辺に行きたい気持ちが強い
そういった想像をできるほどに、余裕が生まれているのはいい兆候

 

ドイツに飛んで、新しい人々と出会うのも、
旅行を重ねるのも、
全くドイツ語ができないまま、知識もないままに講義を受けるのだって、
楽しみになってきている

 

 

 

タスクが終わったからゆとりが生まれた、とも言ったけれど、
実は多分理由はもう一つあって、
それはこの短い半年間に
自分が色々、できるようになっていることに気づいたから

 

語学力は、さておき、
前提となる知識量が、倍増して自分のものになっている感じがある

 

例えば、今日の現代国際政治のテストは、
大して準備をしていなかったのだけれど、
比較的スラスラと記述することができた

 

それは、これまで全く分かっていなかった米中関係や、
近世史や第二次世界大戦後の世界情勢など、
ゼミや、その他の授業でも、
自分の中で空白となっていた領域の知識を補完できたからだ

 

ゼミの同期と、
「留学の準備とか、色々あったから仕方ないけれど、
勉強量が圧倒的に足りてないし、適当になってしまった」
と、この前の飲み会の帰り道にぼやいていた

 

それは私も常々思っていたことで、
一応文献は丸々通して読むことは心がけていたけれど、
内容理解という側面から見れば、手を抜いていたことは確かで

 

けれど、最近の試験や、出来事についてを考える時の目線が、
明らかに多角的で、飛躍し過ぎた論理を組み立てることが、減っている
そういう実感がある

 

加えて、
まばらに行なっていた趣味の読書が、
自主的に取った文学部の講義のレポートや、
あるいは試験内容にかぶっていたりしている確率が高まったのは、
基礎となる教養的な部分が
おそばせながら補われている証拠ではないだろうか

とにかく、なんでもいいから、
やらないより、やった方が数百倍いいし、
やって無駄なことなんて、何一つないし、なかったという
その自覚は確実に、
これからを歩むための推進力に、なるよ

 

なってくれなきゃ、困る