あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

8.5.2019

 

 

 

久しぶりの早起き、
余裕ある登校の最中、
朝の美しい陽光を浴びた皐月の躑躅を、おさめる

 

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2月からバラバラと案件が散らかっていたけれども、
今週をもって、多少は落ち着きそうだ

 

人間って、目標、終わり、ゴールなどのピリオドが見えるだけで、
こんなに精神的に安定するものなのね

 

だからといって、手放しに喜んでいられないのも、
色々ぐるぐると、一冊の本を巡って考えてしまったから

 

 

 

今日のゼミの課題本は、E・H・カーの『歴史とは何か』
コメント提出が昨日の深夜までで、
またも焦燥に駆られながら、滑り込んでメールを送る
(とはいえ、今日みんなに話を聞いたら読み切らずに提出した猛者も多くて驚き)

 

『危機の二十年』を読んだ時にも思ったけれど、
本当にカーは、慎重な物言いで理論の破綻を避ける
確かに、本当に頭の良い人だったのだろう、
議論を展開できるような論点の一つも見つからない

 

それでも、彼の著作を今読んで、微かな違和感を覚えるのは、
生きる時代の違い
彼は絶妙に断言を避けているけれど、
それでも社会主義への心の傾きを隠し切ることができていない

 

WWⅡ前後、あるいはソ連崩壊前後と時代を隔てている私たちには、
彼の感覚だけではなく、当時の人々が肌で感じていた感覚を、
かすった程度も知覚することができない

 

それ以前の時代と比べて、中途半端に状況に類似点が見出せるために、
余計に、首を傾げてしまうことも多い

 

私は、彼や彼らに非難を加えたいわけではないし、
ましてや自分の考え方が正しいなんて、到底思えない

 

自分の理解しやすいと感じるものは、
物事を単純化してしまっているだけであるような気がするし、
かといって、
自分の理解の範疇を超えるものは、
何かしらの自身の見解を示す以前の問題だし

 

一つの明確な目標や、
全員が共有できる絶対的な目的がなければ、
人はやっぱり、前に進めないのだろうか?

 

専門職である学者でさえ、
物事をできる限り相対化して、正しい因果関係を把握するのは難しいのに、
人々がそれを実行できるはずがないし、
それは果たして全員が行わなくてはならない行為なのだろうか?

 

人は結局自分が共感できるものに親近感を覚えるし、
共感できないものは異端であり悪であるように感じる、
その性に抗わなければ、何かを排斥することに絶対に繋がるのに、
排斥の防止を抵抗への絶対的な要因と見なすことができる人は、
今の世界にはあまりに少ないような気がする