あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

19.3.2019

 

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これは昨日と今日、春待ちの公園から見上げた木々と空
久しぶりにまともに近所を散歩してみると、
今年は例年よりも、花が強く薫っている気がした

 

この香りも、花粉に悩まされている人には感じられないのか、と
少しさみしい気持ちになった

 

 

 

 


今日はほぼ引きこもって、色々な日課をこなしていたのだけれど、
冷静に私は、自分のキャパに対して課している量が多すぎるのだな、とため息

 

語学、史学、読書、
それから、創作、日記

 

大した集中力がないことは分かっているし、
日課といえども、元々これを毎日全部こなす計算ではないし、
出かけたりしていると、結局全然手がつけられなかったりも、する

 

それでも、今日のように丸一日あってやっと、
「一日このくらいはやらないと、間に合わないよなぁ」という量が達成できる程度

 

こんなんじゃ全然ダメなのになぁ、という焦りが募るばかりの毎日だ

 

 

 

集中力の配分は、難しい
物理的な時間的制約、それから体力的制約は勿論なのだけれど、
精神的な集中力というのは、どうしても計算し難いし、いつも見積もりを間違える
その上、結構な気まぐれとバラつきがある、ときた

 

けれど、今日ふと気づいたのは、
私は、インプットしている時の集中力が極端に低くて、
アウトプットしている時の集中力が異様だ、ということ

 

このことには、もっと早く気づいても良かったのにな
というか気づいてはいたのかもしれないけれど、自覚的ではなかった
言語化したことがない、というのが何よりの証拠だ

 

勉強は、別に嫌いじゃないのに、
なんだかおかしいな、という違和感は、
ここにあったのか、という

 

思えば、創作をしている時、ここに書いている時、
それからポスター課題や論文を進めている時、
短時間で集中力が切れることは一切なくて

 

むしろ後から時間を示す数字がふと目に入って、
もうこんなに時間が経っていたのか、と驚愕することばかり

 

代わりに、予想以上の体力、精神力を消耗しているので、
一旦休憩を挟むと、中々次の作業に取り掛かる勇気が出なくて、
結局、ブレイクタイムが延び延びに(なって罪悪感を背負う)、
なんてことばかりだ

 

逆に知識を入れている時、
語学やその他の勉強、学術書などを読んでいる時は、
あからさまにすぐ眠気が襲ってくるし、
何かで気を紛らわせていないと、自分を向き合わせることができない

 

そして、自分のご機嫌を取るために、
やれ部屋の香りを一新したり、やれお茶を沸かしたりするのだけれど、
結局、そのままゆるゆるしてしまったり、笑

 

でもこれよりも困りものなのは、
インプットの作業をしている時に、
すぐにアウトプットの作業をしたい、という欲求が生まれてしまうこと

 

例えば、思いついたイメージを、
その辺の紙にイラスト化したくなったり、
iPhoneで文章化したくなったり

 

これの厄介なところは、
そもそもこの欲求のトリガーは、
たった今インプットしていた事物に引かれている、ということで
防ぐ方法がない、という救いのなさよ

 

いや、自分がもっと集中力をつける、というか、
追い込みの気持ちが足りないからだということは、分かっているのだけれども!

 

(この辺にも、変に受験をスキップしたことのコンプレックスが、
現れていたりするんだなぁ、笑)

 

 

 

それから、語学に関して、もう一つぼんやり考えていたのは、
もし私が他の人よりも身につけるペースが遅かったとして、
それは当たり前なのかもしれない、ということ

 

外国語に限らず、母語でもそうなのだけれど、
私は読み書きが得意で、聞く話すがどうも苦手だと感じていた
けれど、よく思い返してみれば、
読みはともかく、私は元々書くのが得意な人間では、なかった

 

中学受験の時には、最終的に国語が苦手な算数をカバーしてくれていたけれど、
文章読解や記述問題がずっと得意だったわけではないし、
読書感想文なんてもってのほかだった

 

中学に上がってからもそういえば、
記述問題で点が取れなくて悔しい思いをしたことは何度もあったのだ

 

そんな私を変えたのは間違いなく、小説を書き始めたことだ

 

内容やクオリティはともかく、
どう考えても私は、同年代の他の平均的な子供のよりも、
十倍くらいの分量は書いている

 

レポートや感想文はともかく、
私が記述問題を得意とし始めたのは、
おそらく高一の後半くらいだったように思うし、
確かに、数年続ければそのくらいの実力もつくのかもしれない

 

それに、読む能力の方もそうだ
確かに私は同年代の子供よりも文字を解し始めたのが早かった
けれども、そのことも手伝って、
少なくとも高校までは、同年代の子の二倍程度の冊数は、読んでいたように思う

 

 

 

練習を重ねれば重ねるほど、それが上達するのは当たり前で、
私の現在の特技は、天性のものじゃなくて、絶対的に後天的なものだし、
むしろ本来的な能力は、平均以下なのかもしれないし

 

そしてその二つの能力に引っ張られる形で、他の能力が伸びたように思う
話す、聞くことがマトモにできるようになったように感じるのは、
母語の日本語でさえ、つい最近のことだ
(本当に最近は信じてもらえないのだけれど、
私の高校までの通り名は“コミュ障の代名詞”だった)

 

 

 

だから、と言い訳するつもりではないし、
別に努力を辞めるわけでも、正当化するわけでもない

 

ただ、このことに気がついて、
私の肩の荷はすこぅし、軽くなったし、
変に強張っていた意識は、和らいだ

 

変に焦っても、仕方がないのだし、
今私がやっていることは、全然間違いなんかじゃない
すぐに結果が出なくても、いつかそれは力になる、
全く報われない、なんてことはあり得ないよ

 

そうやって、過去の自分が私の肩を叩いてくれたように思うから、
私は自分のことを信じてまた、
恐ろしくも、少しだけ美しいかもしれない明日に向かうんだ