あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

19.2.2019

 

 

 

なめらかなのか、それとも唐突なのか、

そういうことについて思いを馳せていた

 

私たちが得られる情報というのは、大抵が「点」であって、

打ち付けられたそれを、グラフのようにつないで、物事を見る

 

 

 

昨日、ある恋人たちが別れた

 

彼らと私の間には、ほとんど繋がりがない

ただ、その女の子の方は不思議な縁で巡り合った子で、

Instagramtwitterは繋がっていた、

そこに彼の写真がよく挙げられていたし、彼についてよく語っていたから、

恋人がいるということは知っていた、という程度

 

近頃、雲行きが怪しいような気はしていたのだけれど、

昨日、彼女のSNS上には、別れを告げたことが述べられていた

彼女は、動揺しているようだった

 

 

 

私は、彼らがどう知り合ったのか、どう付き合ってきたのか、

何があったのか、一つも知らぬ

 

知らないからこそ、まるでランプをスイッチでパチパチと切り替えるように、

「恋人同士だった」が「別れた」という風に、

異なる点から点へと、出来事のようなことが、唐突に結び付けられる

 

でも、本当はそうじゃないことを、分かっている

そんな単純ではないことは、分かっている

 

小刻みに震えながら、

あるいは点を打ちすぎて、最早なだらかな曲線のように、

出来事は、ゆるやかに、なめらかに刻まれていたはずで、

一つ一つ描けば、それは永遠の物語になることを、

私は自分の経験から理解している

 

でも、私は何も「知らない」から、ただ「点」としての事実を受け入れるしかない

私たちの知覚している物事は、いつだってそうなのだ

 

 

 

見えなくて、あるいは見逃して、

聞こえなくて、あるいは聞き逃して、

ガクガクとした、不恰好で不自然な物語を受け入れる他なくて、

いつしかそれは日常となる

 それがありふれているのは、

「分かりやすい」からだと勘違いしてしまう

 

 

 

例えば、昨今の「若者の危険な旅」という話題について

 

何故、誰も危険だと教えてやらないのか、

どうして、すぐに調べられることなのに、無知のまま飛び込んでしまうのか

 

勿論それはその通りなのだけれど、

それはきっと、

旅に出てしまう者にとっても、送り出してしまう者にとっても、

 対象が「点」としてでしか見えていないからだ

本当は、そこに刻まれているはずだった点、それが連なっている線、

そういったものを想起していないからだ

 

 

 

世界は、私たち一人一人の存在に対して、

あまりに広すぎる

 

糸で引き攣らせるように、一部と一部を無理矢理繋いで、

その間にある果てしないものを、無視して、

あたかも世界が縮まったかのように幻惑されている、

というのが、今日の現状

 

だとしても、と私は思う

世界が全体性を失っては、ならないと

 

全てのことを知るには大きすぎるけれど、そのくせ、

全ては繋がっている

 

だから、誰かが適当に恣意的に分節するなんてことは、あり得なくて

全体は全体として捉えなければ、何も生み出すことはできない

 

 

 

だからこそ、

そういう努力を、私はやめたくないし、

もしもやめるなら、全てが朽ち果ててしまった方がマシだ、とさえ思う