あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

11.10.2018

 

 

 

想像力に結びつく言葉と、結びつかない言葉がある

 

 

 

私たちは、誠に残念なことに、目は二つしかなくて、

しかもそれは自由に飛び回れるものでもなく、私たちの生身の身体に付いて回る

 

目の前で起きていることしか、直接知覚することはできず、

故に、世の中で起きていることを全て感じて、全て理解しようとすることは、不可能だ

 

私は今、日本にいて、

日本というのは大陸から切り離された、島国で

今のところ、戦争や暴力で満たされることもなく、平和的で安全、といえるだろう

 

もちろん、日本が単一民族国家だなんて、馬鹿げたことは言わないけれど、

それでも、生まれた時からその環境で育ってきた人々は、

必然的に、“他の国の人”の存在感が薄まるに違いない

 

 

 

私たちは、広い世界に憧れると同時に、

どこかで“自分に関係のある領域”と“自分に関係のない領域”の間に、密かに線を引く

そうして、自国と外国、という意識を抱く

 

それは、言ってしまえば、

無責任な憧憬を可能にするための手段に過ぎない

 

 

 

ある人々は、西洋諸国に、あるいはエキゾチックなオリエントに思いを馳せ、

その経験を、お金で買って、楽しむことを夢見るだろう

 

アウトランダーとしてその土地の良い側面だけを楽しむことは、

さぞかし心地良い充足感を生むに違いない

そこはまさに、エンターテイメントパークのように感じられるだろう

 

そして、大抵の場合、同時にそこにも人々の暮らしがある、ということは、

忘却の彼方にある

 

 

 

世界にはそんな風にきらびやかな景色だけが広がっているのではなく、

紛争や難民問題は、紛れもなく私たちの生きる世界の地表面で起きている

 

おとぎ話の架空の場所ではなく、足を伸ばそうと思えば行ける場所にある

 

そういったことを、私たちは軽視しがちだ

それは、非日常の事柄として、

“自分に関係のない領域”に自動的に区分されてしまうから

 

しかも、その問題は今や、

関係ない、よく知らない地域で起きているのではなく、

日本人が関心を寄せがちな、ヨーロッパ大陸や、アメリカで起きている

 

それはニュースで切り取られる、典型的でセンシティブな映像の形だけではなく、

それぞれの事情は多様で、様々な信じられないような原因で、

生きている人々が、生きるための権利を奪われているのだ

 

ニュース越しの言葉が、事実の概要を伝えているのみで、

それを読んだだけで、あたかも起きている現実が分かったような気になって、

でも、今の自分にできることはない、私はそこにいないのだから、と、

そっと目をそらして、友達とのチャットや、あるいは日常に降り注ぐ仕事に目を向ける

 

それでは、届かないのだ、

ある程度の具体性を持って、日常の中に紛れ込んできて、トリガーが引かれる

初めてその事実は、現実味を持って私たちの心に迫ってくる

 

 

 

言葉と想像力の結びつきは、強くて、脆い

私はそのことを、今までも身をもって体験してきた

 

 私は少しずつ、世界の問題を、日本の問題を、

「自分の問題だ」という意識を持てるように、努めている

 

そう、“努めている”としか言えない、

そういう意識を持っている、なんて、おこがましくて

 

もうずっと、自分にできることはなんだろう、と考え続けている

考えなければ、ずっと楽だと思うけれど、

私のやっていることが、偽善だとは思わない

結局私たちにできる最善のことは、無視せずに、考え続けることだと思うから

 

 

 

自分の無力さにふるえてしまう時も、ある

それでも、やっぱり考えながら、走っていきたいな、と思う