あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

2.11.2018

 

 

 

今日は、本当に久々に高校時代よりも早い電車に乗った

早い電車だから空いてるかと思ったけれど、甘かった

最も混雑する時間帯にぶつかってしまったのだ

 

 

 

そして大学に辿り着く

友達と合流してキャンパスを歩いていたのだけれど、人っ子一人いない

大学生にもなって、こんな時間から学校に来る物好きなんていないよね、と笑う

なんてったって、まだどの建物も空いていないのだから

 

授業前に、もう一人の友達とドイツ語の先生のところへ

とある目的から、ドイツ語の発音を徹底的に直してもらうためだ

 

まあ、ひどかった

 

いつもは二、三文とかしか読まないわけだし、

しかもただの例文や新聞記事とかだから、適当に読んでいてもごまかされるけど、

台本となると、そうはいかない

 

感情らしきものを込めようとすると、リズムがボロボロと何処かへ行ってしまう

アクセントの強弱を何度も直されて、

自分でも頭では理解しているのに、混乱して全く逆のことをやってしまう

この感覚は、左右盲で困っている時の感覚に似ている

 

結局どうにかそれらしきものは(先生の尽力で)録れたのだけれど、

まあ、結果は果たして

 

 

 

そんなことがあって、滅多に眠くならないドイツ語の授業でも眠気が止まらない

ここ最近、6時間以上眠った日がない上に、

よくよく思い出してみると、何回か夜中に起きてしまっている

悪夢の記憶こそあらねど、あまりよく眠れていないのかもしれない

 

それでも、多分無理をできるのも、今のうちだけだから

先の展望が見えつつある今、絶対に妥協したくない

目の前に横たわる、全ての物事に対して

 

そしてインターン中も本当に眠気が治らなくて、

お金がないのを承知で帰ろうかとも思ったのだけれど、

思いとどまって、職場で初めて缶コーヒーを開ける

 

一口飲んだだけで、急に眠気が麻痺した

私は元来カフェインが効かない体質なので、それで目覚めたわけではなく、

缶コーヒークオリティとはいえども、

あのコーヒーの香りと、甘さが私を揺り起こした

 

なんとなく避けていたけれど、もっと活用すればよかったな、今までも

 

 

 

今日、今まで持っていた違和感がほどけた

それは何かというと、「好き」という単語について

 

私は、人やものに対して「好き」ということに、とても抵抗がある

今は、ふざけながらならぽいっと言うことができるけれど、

昔は冗談でも言えなかったし、誰かからそう言われても、曖昧な反応しかできなかった

すぐに人に対して「好き」って言える人が、不思議でもあり、羨ましくもあった

 

でも、私はその人のことを「好き」じゃないから言えないのか、

そうしたら、私って愛情のない人間なんだろうか、とかぐるぐる思考

単に言葉に対して感じる重みが違うのかな、なんて

 

でも、事実はその逆だった

 

私は、無意識に私が発する「好き」が、

あまりに流動的で、無責任で、軽い言葉だということに、気づいていたのだ

 

思えば、個人宛ではないtwitterや、気のおけない友人、それから勿論自分自身の中で、

「これが好き」や「あの人のああいうところが好き」ということは頻繁に発している

 

では、いつこれができなくなるかというと、

それは私が他者の前で話している時だけ

 

私の「好き」は、いつ転じるか分からない

 

最近ようやく自分で認めることができたのだけれど、私は結構、移り気な性格だ

あれに夢中になったかと思えば、次はこれ、というように、

興味の対象がくるくる変わる

 

それを私はあまり良しとしていなくて、

だから結構、変わらない私を演じたくて、無理をするところがある

それはそれで、痛々しいということは、十分承知の上なのだけれど

 

そんな適当な感情なのに、他人の前で公言することなんて、できない

責任の取れない発言はしないこと、それは私の頑固すぎるポリシーの一つだ

 

 

 

何故このことに気づけたのか、

それは「愛している」という言葉をすっと目の端で捉えた時だった

 

そんなに大仰な言葉、大層な言葉だなぁ、と思っていたのだけれど、

胸に手を当てて思い直して、私は目を丸くした

 

どちらが言いやすい?と聞かれたならば、

私は多分、迷わずこの言葉の方を、私の喉は通すんだろうな、と

 

「好き」と言える対象と「愛している」と言える対象は、確かに全く違う

比べていいものでもないかもしれない、

ざっくり言えば、前者は具体的な事物についてだし、後者はもっと観念的だ

 

それでも、人について言うならば、私は双方の言葉を人に向けるだろう

そしてやはり、ためらいなく言えるのは、後者の方

だって、私が一度愛したものに対して向ける感情は、永遠だから

 

 

 

かつての私の友人は、「好き」を連発する子だった

私はそれが不思議だったけれど、彼女の優れているところでもあると思っていた

「好きなものがいつまでそこにいてくれるか分からない、だから今言うの」

と、彼女は言った

 

それは正しいのだろう、

それまでに私が変わるかもしれないし、対象が変化してしまうかもしれない

それは、よくあること

 

でも、どこかで違和感を覚えていたのは、

私が「好き」という言葉を、ある意味で蔑視していたからなんだろうな、

 

自分の定義付けを、他人にまで当てはめて、

彼女があまりにも連発するから、余計にね

 

 

 

でも、思うのだ

これだけハイコンテクストな日本語なのに、

あんなに近くにいた人間の間でも、言語の定義にこれだけ差があるなんて

しかも、それに私たちは中々気づけない

 

だとすれば、異なる環境に育った人たちが言葉を通じて相互に理解し合うには、

一体どれほどの努力と、時間を有するんだろう

 

 

 

彼女は言った、

「好きが全て、好きが私の行動の理由」

私はそれを、多分一生理解できない

彼女の「好き」の定義を直接知ることは、不可能なのだけれど、

多分私の「愛している」の定義とも、別

 

だって「好き」という極めて流動性の高い、不安定な点に向かって、

何かを積み重ねることなんて、私には恐ろしくて、到底できない

 

確かに私にも「好き」が向けられる対象がある、

だけれど、それ自体が目的にはなり得ない

 

それが好きだから、私はその点に辿り着くだけじゃ、それを得るだけじゃ満足できない

私は、その先へ行きたいから、その広がりを見たいと思うから

それは、また「好き」とは違った次元で、

それこそが、私の「愛している」ということなんだと思う

 

 

 

私の周りにいる、うつくしい人たち、

本の山、

豊かなコーヒーの香り、

古森を溶かしたような、深緑、

そして、魔力のみなぎる、言葉たち

 

こういった物事を、私はきっと、ずっと、愛し続けるよ