あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

19.10.2018

 

 

 

うふふ、なんとかサプライズ大成功

今日は親友の誕生日だったのです(もう昨日だったけれど)

 

 

今日という一日に、楽しくなかった瞬間はなかった

気分の上げ下げが激しい私にとって、そう言い切れるのは本当に珍しい

 

1限のドイツ語はまたも抜き打ちテスト

とはいえ恒例行事になりつつあるこれに対しては、もはや驚きもしなくなった

けれど、今日はあまりにちんぷんかんぷんな問題が多すぎて、手応えゼロ

まあ、こんな日もあるさ

 

それから、2限はまたアーサー王についての講義だったのだけれど、

今日という日に限って、大学図書館に移動して、

所蔵されているとある中世の重要資料のレプリカを見学するのだという

 

正直、今日はその後予定があったのでめちゃくちゃ急いでいたのだけれど、

世界史好きの私からすれば、重要資料のレプリカ(それも専門家の解説付き)なんて、

まさに垂涎ものだ

 

結局、見に行ったのだけれど、圧巻だった

どうしてこんなものがうちの大学にあるのか、甚だ不思議なくらいに

国立図書館にもないらしい)

 

それから駅まで猛ダッシュして、乗り換えでも猛ダッシュして、

なんとか予定よりも5分早く新大久保に辿り着く

 

そう、今日は友達のご縁で、こちらの舞台を観に行ったのだ

(そして、誕生日の彼女が引いた席は、なんと最前列……おお、神よ……)

 

www.hatsukanezumi-ningen.jp

 

ジョン・スタインベック原作の舞台

 

 

ハツカネズミと人間 (新潮文庫)

ハツカネズミと人間 (新潮文庫)

 

 

 

世界恐慌下にて、下級労働者(ここでは農夫)に待ち受ける現実を、

風刺的に克明に描いた作品

 

残念ながら原作を読んだことはないのだけれど、

調べてみると『怒りの葡萄』や『エデンの東』の作者なのね

それでも教養のない私は、タイトルしか知らないのだけれど

 

彼のバックグラウンドをみると、非常に様々な経験をしている

下級労働者として働くこともあったけれど、しっかり高等教育を受けている

ノーベル文学賞の受賞理由は、

“優れた思いやりのあるユーモアと鋭い社会観察を結びつけた、現実的で想像力のある著作に対して”

となっている、まさにその通りだと思う

 

さて、今回の作品には、“下級労働者の苦悩” と “被差別者との対峙” の2つのテーマが込められている

 

主人公の相棒レニーは「頭の回転の遅い」という表現に書き換えられているけれど、

いわゆる知的障害者にあたる

 

(個人的には知恵遅れ、の方が表現が柔らかい感じがして使いたいのだけれど、

こちらは差別用語に当たるらしい、差別用語への見解は別の機会に述べたいと思う)

彼を連れて農場に出稼ぎに出るジョージは、頭の回転が良くて、機知に富んだ若者だ

 

彼らの夢は、稼いだお金で小さな土地を買って、誰にも指図されない、

素朴で豊かな生活を送ること

 

現代の(金銭面で中流階級以上の)私たちからすれば、

それはささやかな夢に思えるかもしれないけれど、

当時の農夫にとっては、それは全く当たり前ではなく、夢物語だった

 

服装、生活、態度

それら全てから、雇う者、雇われる者の圧倒的格差が、いやでもリアルに見えてくる

どうやっても、這い上がれない、生まれた時からの宿命

 

忘れてはいけない、私たちが生きているこの現在は、

この時からまだ一世紀も経っていないのだ

そして、これは現代社会に対する風刺としても、十分に通用する

 

健気な彼らが、それでも前を向こうとする懸命な姿には、

胸をつまらせてしまうような、気持ちがこみ上げてくる

 

 

 

それから、この作品には“被差別者” にあたる人々が多数登場する

知的障害を抱えるレニー、片手のない老人、黒人、

それから、女性だ

 

私は、原作でこの女性がどのような扱いを受けていたのか、しらない

 

どういう文脈でこのようなキャラクターが形成されたのか、しらない

 

言葉通り受け取るなら、この登場人物の中で唯一、

被差別対象として擁護されないのが、女性だ

 

確かに、彼女は男たちを惑わせるようなことをしたし、

結果的に彼女が全ての悲劇の引き金となってしまっていたのは事実だ

物語に古典的なファム・ファタールとしての存在が必要だったのかもしれない

 

それでも、あまりにも、酷い扱いだった

 

良家のおてんば娘が、あばずれ呼ばわりされたり、

誰とも口を聞いてもらえない孤独を、誰一人として埋めようとしてくれない

その中で寄り添ってくれたのは、レニーだけだったけれど、

その彼が、そんな意図はなかったとはいえ、彼女を亡き者にしてしまう

彼女の死が、物語を進める小道具的な存在になってしまっているように感じた

 

それは、舞台が悪いとかではなくて、

その背景として、30年代の戦間期アメリカでは、

それまでに流行した挑戦的でアグレッシブな女性像を敬遠し、

代わりに静かで家庭的な女性が好まれるようになった

不況による失業率の増大の影響だった

 

彼女がバリキャリとして働こうとしていたかといえばそうではないけれど、

男たちの冷徹な目はおそらくそこから来ているのだろう

 

もう一度繰り返すけれど、私は原作を読んでいないので深いことはいえない

けれど、作者が彼らと同じ目線に立ってそのような描写を加えたのか、

それとも当時の社会状況を反映させるためにそうしたのか、

それは知っておく必要がある気がする

 

 

 

やっぱり書ききれないな

 

それから約束の場所に行って、

サプライズゲストと、美味しい料理と、サプライズプレゼントと、手紙

大変喜んでもらえて嬉しゅうございました

 

それからカフェに移動して、ひたすらにおしゃべり

閉店時間まで居座ってしまったよ

 

 

 

思ったのは、

なかなか会わない友達でも、切れない縁というのはあるもので、

それは過ごした時間の長さとか、そういうものでは測れない

 

頻繁に会いたいと思う友達も勿論いるけれど、

何故か会わなくてはならないような焦燥感と義務感に駆られている時、

それはきっと、

元々なかった縁を必死に手繰り寄せようとするあがきが、

密な連絡と時間を重ねて、

不自然に詰められた距離感が息苦しくて、

やがて破綻してしまう、そんな予兆なのかもしれないな、

と思ったわけです

 

だから、焦らなくていいんだ、ということ

 

いつも私の人生ではそうだった、

良縁はきっと、向こうからやってくる