あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

13.10.2018

 

 

 

  

「自分」はそこに存在を定義できるものではない、但しどこにでも介在しうるものではないか

 

 

 

今日という日を心待ちにしていたはずなのに、気が重くて、

二度寝、三度寝を幾度となく繰り返す

 

それは、私が進もうとしている先に、奈落の口がぽっかりと空いているような、

昨日から続いているえもいえぬ不安が、憂鬱の曇りを誘ったから

 

家からも、ベットからも出たくないけれど、

そうも言ってられずに、起き出してコーヒーを沸かそうとすると、

母親が沸かした残りがポットから湯気を吐いていた

そう、人生悪いことばかりじゃない、と安堵する

 

 

 

電車の中でふと考えたのは、冒頭で述べたようなこと

つまり、「私」という個人の自我の存在を物理的に確かめる手段は、ない

コギト・エルゴ・スム、とは言うけれど、

私が問題にしているのはもっと内面的で、具体的な問題だ

 

つまり、「私」と世界の境目はどこにあって、それは何なのか、ということ

 

その存在は客観的に証明しうるものではない、と思う

現に、自分が分からなくなる時、見失う時はたくさんあって、

今も結局、自分の使命や存在意義と、意志との関連問題を手探りにする状態

 

だけれど、も

もし「自分」とは固有の方程式のようなものだと考えて、

そこに言葉や思考、ひいては世界を代入することで、

それらを「再生産」していく機関なのかもしれない

だとすれば、私の見ている世界のどこにでも、「自分」は介在することになる

これはつまり、逆説的に現象学に通ずるものがあるかもしれないけれど

 

この問題が、まさに今読んでいる本に立ち現われるとは思っても見なかった

 

 

 

今日は私の誕生日を祝うための昼飲みという贅沢な時間

でも実はその子も8月に誕生日で、

合同のプレゼントは渡したけれど、個人的なプレゼントは渡していなかった、

だから私からもサプライズプレゼントを用意していたのだ

 

さぞかし驚くだろうと思って、その時を待っていたのだけれど、

私がお手洗いから帰ると、机上にプレゼントが用意されていた

 

目を瞠る

一つは私が指定したから本だと分かっていたのだけれど、

もう一つ置かれている包みは、伊東屋のものだった

 

そして、私が彼女に用意したプレゼントも伊東屋の包みにつつまれている

なんという偶然、これは予想外

それは万年筆でも描きやすいという、物書き向けのノートだった

今年は、もう一人の子からもノートをもらっている

 

wannaelfeternal.hatenablog.com

 

やっぱり私は書く人だという印象が強いらしい

そしてありがとう、とプレゼントをしまいながら、

「はい」

と何気なく手渡すと、予想通りの反応が帰ってきた

私が貰いっぱなしで帰るような質のはずがないでしょ、と笑う

 

贈ったのは、カランダッシュのボールペン

開けた瞬間に、

「これずっと欲しくてコーナーでいつも彷徨いてたの!!!」

というものだから、安心した

モレスキンのノートではなくこちらを選んで正解だった

 

メタリックな赤と青で迷ったのだけれど、

青の洞窟を思わせるような美しい青に、私が一目惚れをしてしまったのだ

そのことを伝えると、

「うん、こっちの方がいい、ありがとう」とにこにこ

そうだと思ったよ、危なかった

 

 

 

帰りに彼女と別れた後、薄着をしていたせいか、少し寒気を感じた

けれど、なんとなくまっすぐ帰りたい気分ではなく、

コーヒーを飲みに行こうと決意

行きの電車で読んでいた『王とサーカス』の続きが気になっていたからだ

 

 

王とサーカス (創元推理文庫)

王とサーカス (創元推理文庫)

 

 

 

正直、行きの電車で読んでいた部分までで、

なぜ私はもっとこれを早く読まなかったのだろう、と思った

文庫本を待望していたのだけれど、

やっぱり、ハード版で買う価値のある小説だった、たくさんの意味で

 

准尉が太刀洗に投げかける問いは、

まさに私が私自身に幾度となく問いかけようとした問いそのもの

 

それを第三者から、はっきりとした明確な言葉で問われることは、

私の頭をグラグラと揺らすのには充分すぎるほどの衝撃だったけれども、

ずっと立ち込めていた霧が晴れたような感覚をも与えた

 

私は、何のために書くのか?

何のために、知りたがるのか?

それは結局、私自身に快楽を与えるための材料として、

ある種のエンターテイメントとして、

日々搾取して、消費しているだけではないのか?

 

知識欲は、好奇心は、本当に正しい概念だろうか?

 

友達とも、「寛容」とは何か?という話を議論したばかりで、

(つまり彼女はジョン・ロックの『寛容論』に関する演習を取っているらしいのだけれど)

彼女は、「多文化主義の前段階として、寛容がある」と言った

 

先に補足しておくと、

日本語での寛容と、いわゆる欧米のToleration(ドイツ語ならToleranz)は全然内包する意味が違って、

日本ではポジティブに捉えられがちなこの言葉は、向こうではネガティブな意味合いを持つ

「あなたのことも受け入れます」ではなくて、

「あなたのことは嫌いだけれど、まあ勝手にやれば? 口出しはしないから」

というのがToleration

 

私は「その“嫌い”の定義が何かにもよるよね」と言った

というのも、それが異端を理解しようとした過程を含んだ上での嫌悪か、そうでないのかでは、全く意味合いが違ってくるから

 

でも彼女の授業で扱っている文献の筆者は、

「理解しようとすることは干渉にあたり、その時点で寛容には含まれない」

と主張しているらしい

 

……とまあ、書ききれないほど色々話したのだけれど、

私は正直、多文化主義を信じていないし、上記の定義での寛容も、紛争の根本的解決手段にはならないと思う

(とか言って、根本的、とか言ってる私も理想主義者なのかもしれないけれど)

 

前にも言ったかもしれない、

私は異端と自分とに差異がある、と認識することが、

相互理解の上では最重要だと思っている

 

ここで先ほどの『王とサーカス』の話に繋がるのだけれど、

私は異なる物事との差異を測るには、

つまりそれがどのようなもので如何にして生まれてきたのか、

ということを理解するには、「知ること」が必要なのだ、そう信じている

 

でも、これが正当化ではない、という保証はどこにもない

 

結局上記の問いにその場で答えられなかった太刀洗は、それでも終局にて、

「今いる世界がどんなものなのか、知りたい」

という立場を、はっきりと表明する

 

そして、登場人物の一人である八津田は、

完成に向かうために、個人の考え、たくさんの視点を流布させることは必要だ、

と言った

 

進歩主義的な考え方は、やっぱり私たちを救う

私が「自分」の介在する世界を世に発信することで、

世界は良くなるかもしれないし、悪くなるかもしれない

それでもその作業は、世界を完成へ向かわせるためのピースをはめる作業であることに、変わりはないと思うのだ

 

 

 

誰もが、自分でうつくしいと思ったものを、

うつくしい、と、胸を張って言えるような世界にならなくてはならない

 

二年前の麗らかな春の日、

祖父の骨がつめたい墓場に収まった日の世界は、うつくしかった

 

私のあの日の誓いは、まことの言葉で語られてたと思うから

胸に刻んで、生きていきたい