あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

10.10.2018

 

 

真面目、ってなんだろう、と考えた

 

 

 

友達同士が、喧嘩をしたらしい

いや、あれは喧嘩なんて言葉に収まるものではない、

大きさとか、重さということではなく、意味的な、質的な問題

ちゃんと適切な言葉で表現できないのが、悔しい

 

 どうしても、人には入ってこられたくない空間がある

でも皮肉なことに、隠しているが故に、他者は気づかずにそこに分け入ってしまう

その空間の所在は、本当に人それぞれで、一般に定義することができないのに、

そこに分け入る罪はとても、重かったりする

 

彼が考えている過程を半ば無視する形で非難してしまった彼女は、

 きっと彼の入ってきてほしくない領域に踏み込んでしまっていたのだろう

それも、これまでも、何回かあったのかもしれない

 

かといって、彼女の考えることも分かる

彼には最終的に成功してほしいし、将来は明るいものであってほしいのだ

確かにその態度を取られては、心配になる気持ちも分かる

 

でも、それでも人は人であって、悲しいかな、

自分の延長上にあると思いきや、それは実質的な意味で繋がりを持たない

人間、誰一人として、それは親子であっても、どんなに似ていても、

向いているベクトルはほんの少しずつズレていて、

だから人と人は交わるのだけれど、かといって絶対に同じにはなれない

 

「君のためを思って」という言葉は、

発した本人よりも、発された当人の方に重くのしかかる

発言者のエゴだと言ってしまえばそれまでだ

いくら発した本人が本気でそう思っていたとしても、

否定と強制と意味に取られかねない、強い言葉

そういう分かりやすく、明快な言葉ほど、人を傷つけたり、あるいは励ましたりする

 

 

 

真面目の定義が、分からなくなってしまった

 

目の前にある重い現実から、目をそらさずに打ち込むこと?

見上げてしまうほどに高い小石の山の障害を、一粒ひとつぶ、取り出そうとすること?

予測できない将来から迫り来る暗い不安に光を当てようとすること?

 

一つ言えるのは、自分は真面目だと思っている人は、

何か一つ貫き通せる信念、あるいはそこからくる自信のような自負を持っている

 

それを打ち崩された時に、周りの人間が、

「ほら、こういう時に真面目な奴は脆い」

という風に吹聴するのだけは、絶対に、絶対に間違っていると思いたい

 

一つ抱え込んだ信念を、折られた時にひしゃげて何が悪い

鍛鉄のように、毎日、一分一秒、ひたすらに打ち続けて、

だから、その人たちにとってそれが人生で、自分で、唯一の答えだ

 

それまで、それを支えにする一方で、人よりも重い責任のようなものを負って、

胸を張って生きてきた、その過程まで否定する権利は、他者にはない

 

その姿が見えやすい人と、見えにくい人がいて、

大体非難の対象になりにくいのは、その間に属する人たち

 

 

 

でも、真面目であることが正解ではないのも、受け入れ難いけれど、事実

その方があそびができるし、人に対して寛容になれる可能性が高いと思う

 

私の周囲の人は、全然悪い人たちじゃないし、いい人ばかりだ

でもある人たちに、私が難関のゼミに応募することを言ったら、

「ええ、国際系ならいい感じのところ、たくさんあるよ!」

と教えてくれる

 

全くの善意だ、彼らの「いい感じ」というのは緩さのことで、

要はゼミに入っていたという経歴が欲しいだけ

 

一年前の私なら、正直言って馬鹿にしていたと思う

でも今は、純粋に、

「では、この人たちは一体日々何を思って、何を生きがいに生きているんだろう?」

という純粋な疑問が湧いて出てくる

 

私はそうは思っていなかったけれど、私自身やっぱり真面目なたちだし、

知的好奇心と創作意欲が異様に高い、

「さあ、私は私の仕事をやるぞ!」という、

(今だけかもしれないけれど)バイタリティに溢れた人間だ

 

しかも今、語学のクラスはそういういわゆる「真面目な人」たちで構成されていて、

さっき話していた二人も、その部類に入るのだと思う

 

けれど、異文化とか、個人間の差異に気づき始めた今、

彼らは彼らで、今何かやりたいこと、私には見えていないものが見えているはずだ、

という想像力が働くようになった

 

これは、確実に進歩だと思う

他者を見下すことでしか、私の生き方を肯定できなかった、あの頃よりも

 

もっとも、他者にかまけていられないくらい焦っているから、というのはある

相対評価を気にしている場合ではないのだ、今は

 

 

 

結局人には、

人といられる空間と、一人でいられる空間、どちらも必要なのだと思う

それは、とても贅沢なことだと分かってはいるけれど

 

 

 

今日もこういう風に悩ましいことばかりではなくて、

今日、高校卒業以来久しぶりに会った友人とは、

そりゃあまた楽しい時間を過ごしたのだけれど、

もうもはや、文字に起こすのが躊躇われるレベルなので、割愛します笑

視点が第三者目線のカメラワークなのが分かったことだけ、記録