あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

6.2.2023

3日のところで書き忘れてしまったのだけれど、街を歩いていると

「〇〇学校 入学試験会場」

なんて仰々しい看板をいくつも見かけて

ああ、今日は多くの小学生にとって決戦の日なんだな、と自分のときを思い返していた

 

冷静に考えて博打に近いような日程だったのだけれど、あのときは絶対行けるという自信があって

今思えば、あのときが人生で最高に自信が持てていた日なんじゃないかしら、というくらい

 

そして卒業式では「ドイツで弁護士になる」なんて、小学生らしからぬ、けれどいかにも小学生な発想でそんな将来の夢を発表したのだっけ

 

あなたは、一応法学部に行くし、法律の授業はそこそことるけれど、全く違う道を辿っているよ、と苦笑いを浮かべたのと同時に、

 

でも、やっぱり全然変わってないんじゃないか、とも思った

 

本の世界に魅了されて、その業界の端っこに席を置いて、仕事をしていて、

モノ好きなのも、相変わらずで、

なにより、無目的にベルリンに“帰りたい”と思い続けている

(でもそのために、スウェーデン語を勉強しているなんて言ったら、どんな顔をするだろう)

 

そのベルリンが、少し変わろうとしているのかもしれない

 

今日、アートキュレーションのディレクターの人とのオンライン対談で

昨今のパレスチナ事情の影響で、最もアートと文化の保護が手厚くて、寛容だといわれていたドイツという土壌がボロボロになってしまっているということ、

愛知トリエンナーレで顕になった“不寛容性”にも関わらず、その問題について何の不自由もなく発言をできるのが、他ならぬ日本だということを聞いて、

絶対的な自由なんて、世界のどこにも存在しないんだな

分断と混乱の火元からの相対的な距離でしか、自由は測れないんだな、とかなしくなった

 

だから、妄想ばっかりが膨らんでいる気がするのはわかっているし、今日だってやっぱり絶望したのに、

 

それでもやっぱりベルリンに戻りたいのは、

一体全体、どうしてなんだろうね

 

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1.9.2021

駅ビルの書店を出て、階段を降りたところで外気を吸う
霧雨が道を濡らしている
ほんの少しだけマスクをずらすと、ひやりと秋が薫った

同じようなぐずついた天気の日に、 同じような道のりでこの匂いをかいだ
そのときの私は、重たいブレザーとスカートに身を包んでいた

本は、当時の私のアイデンティティであり、夢であり、 なにより、延命装置だった
書店は、私が他の人と同じように呼吸を続けていくために 必要不可欠な空間だった

そのことを思うと、当時の私は
意味もわからず、座標もわからず、
バタ足で水中をさまよったまま、 塩水に傷ついた眼で、
遠くに陸らしきものを望んでいるような
そんな状態だったのかもしれない

周りの子は、水かきもあるし、呼吸法も備えているの
どうして、自分には同じことがこんなに苦しいのか
私は陸に上がりたいのに、 皆は水の中が十分に住み良くて、
誰も遠くに行く必要性を感じていないみたいだった

それでもたまに、一人で陸へ向かって泳ぎ始める子はいたけれど
なぜだか私はそれを眺めながら、
“自分はその資格が未だない”
と、その場で立ち泳ぎを続けるばかりだった

そして私はいま、皆と少し離れた場所で
やっぱり、ジタバタとその場でもがき続けている

そんなふうに、昔の記憶と今の自分をとりとめもなく往き来する
秋はきっと好きな季節だから、その分思い入れが強いから、
ちょっとだけ感傷的になりやすい

28.8.2021

あまり人のことをうらやましくおもわない方だ、と自覚していたけれど
本当はそうおもうことをダサい、とはねつけて
見て見ぬ振りしてきただけだ

 

  

いい加減に期限が迫っている論文構想の提出期限に急き立てられて、
今日はずっと、独論文に立ち向かいっぱなし

 

最近はこの作業が中々楽しくて
扱っているテーマについて少しわかってきたから、
というのもあるけれど、どちらかというと
やっと、ある程度ドイツ語が読めるようになってきたことと関係している

 

去年の今頃は、ちょっと長い関係文や再帰動詞に当たっただけで
とたんに文意を掴み取るのを難しく感じていたのだけれど
今はそこではなくて、
むしろ辞書には載っていない語彙のニュアンスでつまづくことが多い

 

自分の積み上げてきたものに、少し自信が持てるようになって
心の余裕もでてきた今日この頃

 

数時間ぶっ通しの作業の末、夕飯までひとやすみ、とTwitterを見ていたら
ある記事のタイトルに、もしかしたら、と閃いた
ひらいてみたら、やはり取材を受けていたのは友人だった

 

動悸がした
それは、知り合いが有名なメディアに発掘されて、
それを自分が自力で発見したことへの興奮だとおもった

 

でも、この時点でほんとうは、
動悸の種類がちょっと異様であることを自覚していた
けれど、気のせいだと、見て見ぬ振りをした

 

それを否が応でも自覚させられるきっかけになったのは、
その記事を紹介するやいなや見せた母親の、
「すごいすごい!」と嬉しそうな声、興奮した態度だった

 

とっさに、
「すごいことが、えらいわけじゃないよね?
というか私は、えらくなりたいわけじゃないよね?」
と、不安げな自我の声が、私の心を守ろうとした

 

自負が、その声をなかったことにしようとしたけれど
もう、手遅れだったし
その繕い自体が、馬鹿馬鹿しくて嫌になった
いつまで自分の心の中で、茶番を演じていれば満足なのだろう、と

 

 

実は昼間に、1時間だけ友人とチャットをしていて、
最近考えていたことを共有した

 

私は、自分の思いや考えを、
筋書きなしに人に披露することを極端に恐れている

 

相手にポジティブな反応が現れる打算がある程度たってからしか、
口にすることができない

「相手のため」と思っていたんだけれど、
これこそ、主体性を手放すための、
自分自身でも気づかないほどに巧妙なレトリックだった
 

こうして他人軸で生きている限り、
私は私のやりたいことを一生見つけられない
(そう、“実現できない”ではなくて、そもそも“見つけられない”)

 

どれだけ他人のために生きている、持てるものを投資したとしても、
結局本心を見せていないのだから「信用」されない

 

だから、一生選べないし、選ばれない人間になる

 

「本当にそうだね」と、
私たちは似たような部分で思い当たる節があった

 

 

他人の前で自分を出せないどころか、
「自律」と称して、
自分自身を全然、受け入れられていなかった

 

もちろん、私は人を傷つけたくないから、
これからも考えてから表現することは変わらない

 

けれど自分が傷つきたくないという理由で、
自我を殺して、腐らせて、
その屍体すら、愛想笑いでごまかすのは
もう、やめにしたいな

2.8.2021

先週、髪型をバッサリと変えた

 

ほんとうは、下半分をボブにして、ちょっとパーマを入れて、
耳あたりから下にグレーを入れて、
みたいな髪型にしたいけど

 

残念ながらわたしは春先から縮毛中で(そうしないと夏が乗り切れない)
カラーはうまく長く入らないし
かといって伸びてきている捻転毛気味の根元は、
いまの毛先の重みがあってようやくどっかりと腰を下ろしてくれているわけだし

 

髪型一つ
ままならないことばかりだなぁ、とおもう

 

結局、前髪を眉上で切って、
毛先15センチ程度にブリーチを入れて、
グレーがかった明るい色にしてもらった

 

結局、1、2回シャンプーしたら、
ただの黄金色になってきたけれども、笑

 

会った友人やインターン先の方々には
「その髪型いいよ!」とめちゃくちゃ褒めてくれて、嬉しかった

 

反面、母親の反応はやけに薄い
まあ、気に入ってはいないでしょうね


でもどこかで「それも意外と似合うね」くらいは
言ってくれないかなぁ、と心のどこかで期待していたんだなと気づいて、
そんな自分に苦笑を漏らす

 

 

 

さて、その会った友人だけれども
彼女はただいま夢を追うため、
かなり難しい経路をたどって、スタートラインに立つことまでは叶えた

私は彼女に、早く会わなければと思っていた
なぜならそのことで、あらぬ理由から、
いわれもない根拠で自分のことを責め立てる暗い感情を
掻き立てる要素になってしまいそうだったから

 

思い違いだよ、と、理性的な自分が珍しくも正しく諌めていて
そして会うやいなや、はじめてといっていいほど理性的な自分の正しさを感じた

 

やっぱり、使っている道具が似通っているだけで、
求める本質は全く異なっていた

 

話を聞けば聞くほど、
彼女自身や彼女が置いている環境に畏敬の念を覚えながら、
そこはとても、私が挑戦したいと思う土俵ではなく
私は過去の自分の直感的な理解が正しかったことを知った

 

私は、自分の言葉や文章をつかって
世の中や個人を変えたいとは、やっぱりどうしてもおもえない

 

そうではなくて、身勝手で無意味かもしれないけれど、
私は私のために、この行為をただ為していたい

 

その過程をあちらこちらで、いろいろな形で放流することで、
もしも誰かが大切ななにかを感じたり、捉えたりすることがあれば
それはそれで素敵なことだけれど
そのことを “私の言葉や文章のおかげ” だと考えたくはない

評価されたい、とおもうと
どうしても手元が狂う

 

「誰かのため」を第一の目的とすると
その傷みははやく、
空疎に成り果てることが多い

 

そこの線引きがしっかりとできていないから
ここ数年、内心で混乱する場面が増えたのだなぁ

 

結局原点回帰
調子を取り戻すには、まだちょっとだけ掛かりそうだ

 

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これはリトアニア、トラカイのガルヴェ湖のほとり
澄んでいておだやかな湖畔を散歩するのが日課、なんて生活を一度はしてみたい

 

 



 

 

 

22.7.2021

 

 

この場で文章を綴らなくなってから、長くて3ヶ月くらいのつもりだったのに
知らぬ間に、半年以上も経っていた
それほどにこの期間はもう、めまぐるしく過ぎていき
その速度と自身の矮小さが
深い谷底へと転がり落ちる、小石のようだった

 

私のこの先少なくとも数年へ、大局的な方向性で言えば一生へ
影響を与える物事が決まった

 

それまでは全然、うまくいかなくて
一生定期的に後悔して、もはやトラウマになっているようなヘマも重ねて
乱気流のような感情を抱えながら突っ切ってきた

 

そして今でも、この結果で満足していいのかと
猜疑心を覚えない、といえば嘘になる

 

 

 

私が手に入れたカードははっきり言って
自分にとってかなり良い条件を兼ね備えていた

 

「無いカード」から無理やり選んだわけではない、
自分がやりたいことが叶えられるセクターにいる、
努力次第でどんなポジションも手に入る上に
次のステップに進むことへも、あまり障壁がない
なにより「間違いがない」という点で、もっとも優れている選択肢だった

 

けれど、そこに全く妥協がなかったかといえば、
はっきりとは否定できない
かといって「ではすべてのカードの中から好きなカードを選んでください」と
仮に問われても、多分答えに窮する
どうしても欲しいカードが今ここに存在するわけでも、ない

結局、思考の末に浮き上がるのは、
条件の問題ではなく、自分の覚悟の問題だった

 

 

 

いつも「やりたいこと」と「やるべきこと」が一致せずに、苦しい思いをした
今選んだカードを引けば、その悩みの大部分は蒸発してくれると考えていた

 

でも、それはあまりに安直すぎる思考で
とってつけたような論理で他人は騙せても、
自分の本心は、まったく騙せない


私にとって自由に文章を綴ることは、呼吸に等しい
けれど、現実を直視すれば、
人一人の呼吸に値段がつくことは、ありえない

 

私にしかできないことがなんなのか
私が本当にやりたいことの輪郭が、未だにつかめずにいる

 

こんなときに、ル=グウィンが『ファンタジーと言葉』の冒頭で引用していた
ヴァージニア・ウルフの言葉が思い出される

文体って、全部リズムなの。
いったんリズムをつかんだら、間違った言葉なんて使いようがないの。
それはそうなんだけど、もう午前中も半ばを過ぎたというのに、
わたしはここにこうしてすわり、
イデアもビジョンも頭の中にいっぱいつまっているのに
それを外に出すことができないわけ。
正しいリズムがつかめないから。

 

ヴァージニア・ウルフ「ヴィタ・サックヴァル=ウエストへの手紙」
一九二六年三月一六日

 

私の頭の中でも
興味や関心や問題や痛みの数々が
異なる色の靄としてくすぶり、微妙なニュアンスを形作っている

 

でも、私はそれを人々と共有できる形で
外に出す方法を知らない


それはきっと、この世に未だに発明されていない、
生を受けていないんじゃないかとすら、おもう

 

肩書や活動は、インベントしないとね
もう少し若くて、すべての物事に怒り、絶望し、殴りかかっていた頃の
自分が、そういう風に皮肉に笑う

 

それなのに、
時間が経てば経つほどに、
濡れたインクのにじみが広がっていくように
不思議な色合いが開かれたかとおもえば、
うすぼんやりとした痕跡だけを残し
最後にはなにがなんだか、分からなくなってしまうような

 

どんどんと、自分の力が失われていくように感じる

 

22歳にもなって、大人になったら得られるとおもっていた
色んなことが手付かずのままで、未だ情けない自分のままだ

 

前よりも少しだけ、いろんなことを学んだら
角が取れて、まるくなって、人当たりだけがよくなって
単色だった靄が、複雑な様相を描き、
それはもはや、自分でも捉えきれなくなってしまった

「私の足元にあるものは、一体なに?」
そんな根源的な問いと、向き合うモラトリアム

 

 

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