あまだれのごとく

時々迷い込む後悔の森

19.6.2020

ふと、自分がこれまで抱えていたもやっとしたものに対して
答えがすっと浮かんでくることがある

 

なぜ、最近こんなにも
少し込み入った話をするとき、言葉が出てこないのか

 

この歯がゆさは、ここ1、2年ずっと続いていたスランプのようなもので
知識が足りないからだ、とか、慣れない言語で話しているからだ、
そう思っていたのだけれど

 

認識も、仮説も、全く間違っていたんだな

 

 

 

要するに、私には
意見があるようで、まるでない

 

私が今まで“自分の意見”だと思っていたものは、
周りに浮かんでいる考え方を“総括・折り合い”をつけたものに過ぎなくて
私の中から表出してきたものでは、決してない

 

ずっと、自分の知識が足りれば、能力が足りれば、
その時に、明快な答えが出せるのだろう、となんとなく思っていた
けれど、そもそもそれは“答え”があればの話で

 

私は負けず嫌いというより、要するに、
誰か、何か別のものに論破されたくないだけで
それは私自身が否定されるということももちろんそうだけど、
全ての存在の承認を得られるような
完全無欠の存在を、どこかずっと信じているのだと思う

 

そしてそれが私にとって、
枠組みや思考方式に異常にこだわる理由なのだろう
生まれてこの方、
この独自の方程式を磨きあげることだけに拘ってきたんだと思う

 

いくら論理的に考えられたとしても、間違いはないかもしれないけれど、
それは自我じゃないし、全く、“答え”には値しなくて

 

だって、数学の試験でも、
公式だけを書いて、解くのを放棄しているようなものだから

 

思えば、私は昔からそうだ
メゾットだけ勝手に考えて、それに従っていれば間違うはずがない
だから、結果を見るのをいつも恐れていた
結論を、出したがらない性格だった

 

例えば、試験のために頑張るのは、馬鹿げている
もっと広い視野で見ないといけない、
だから、関係ない範囲でも、自分の興味に従う

 

でも、それじゃあ他人から問いかけられた時に、
何故、どうして、どうやって、全て答えられない

 

 

 

どうしてこうなったのか、原因は一つだ
全てを創作のために、繰り返してきたから

 

そして私の創作の目的は、無意識だったけれど
いわば「創造」という行為プロセスそのもので、
人に思考の選択肢を与えることが目的あって、
答えを与えることではなかった

 

興味があったとしても、
その興味は果てしなく広いから
もはや無に等しい
他の人に説明することは、多分不可能だ

 

そして誰かのために、答えを出す必要性なんて
本気で考えたこと、なかったんじゃないか

 

こう打っている今も、
本当の意味で、答えをだすことの重要性を、はかりかねている
つまり結局、納得できないままでいる

 

そりゃ、他者と生きていく上で
何かを共有することは大切だ
けれど、それは人生の目的になりうるの?

 

私の生が私自身で完結するなんてありえないのに、
傲慢さは分かっているのに
私はどこに目標を置いて生きているんだろう?

 

18.6.2020

あっさりと、タイトルをつけない方向に舵を取ることに変えた
というのも、理由は二つあって

 

一つは、タイトルをつけようとするとどうしても、
無理にでも一つのテーマに終着させようと躍起になるから、
取り止めのない内容が零れ落ちてしまう

 

だから、日記を書くということに、変に重みが増してしまい
けれど、重たいカチッとした文章をまとめる気にもなれず

 

と、文章を書くこと自体が次第に億劫に感じられて、
ある意味“不自由さ”を感じるようになってしまったこと

 

二つ目は、一つ目と関連するけれど、
できるだけ些細なことでもしるべをつけておいて、
定点記録をしたほうがいい、という結論に至ったこと

 

何故かというと、今、私は就活真っ最中で、
それ以外にも色々やるべきことはあって、
色んなことを毎日思っては、思ったことを忘れてしまって

 

改めて、自分の中で大事にしていたこと、
私自身の軸、舵取りが曖昧になってしまっていることに
大変な恐怖感を覚えている

 

せめて、心が辿ってきた航路の手がかりになるように
そんな思いで、慣れきったやり方に戻すことにした

 

けれど、もし何か言いたいことがあったら、
また、唐突にタイトルをつけたりするかも

 

まあ、別に自分のためにやっていることだし、
厳密にやらなくても、いいか、とあそびを与えることにしました

 

 

 

さて最近は、いつまでたっても見通しがつけられないスケジュールに
はらはら、おろおろしている

 

本当は夏、別のことに専念する予定だったけど、
いかんせんこの状況では余計に、
早く動いた者が勝機を掴む、ように思われる

 

だから、インターンもいくつか申し込んでいるのだけれど、
情報交換をする相手もいないし、
出ているのか出ていないのかよく分からない情報、
結果が出るまで次の日程もまるきり分からない
それが、いくつもいくつも重なる

 

自分が何か抜かしてしまっているんじゃないか、とか
これでも出遅れているんじゃないか、とか
どういうイメージをしておけばいいんだろう、とか

 

夜、ベッドに入るたびに、
就活のこと、自分自身のこと、ドイツ語のこと、論文のこと
ぐるぐる、ぐるぐる、未だにうまく寝付けない

 

そんな中、昨日寝る前にふと、携帯を見たら、
友人から告白じみたメッセージ

 

なんのことやらと思ったら、
冬に留学を取り返すのを諦めます、という報告と
「あなたと大学で出会えてよかった、大好き」
といった内容

 

唐突すぎて、でも彼女はいつもそうだから、
笑ってしまったけれど
でも、私も同じ気持ちだったから、
嬉しくもあり、何より安心した

 

たくさんの人とつながっている、ことは求めないけれど、
いくつかの心の拠り所に邪険にされたら、
私はもう立ち直れないような気がする

 

来年になって、就職する人もいれば、
私と同じく大学に残る人もいる

 

今まで通りの環境は、
どうやっても帰ってこない

 

いつかばらばらになることは、分かっていたけれど

 

前にも「引きこもるほど、思い込みが激しくなる」
という話をしたと思うけれど、
このタイミングで、この言葉をかけられたことには
ほとほと、救われた

 

私だって大好きだよ、
早く会えたら、いいのにね

 

 

能力主義に基づく切り捨てを正当化するな。Meritokratie kann keine Begründung werden, um abzuwerfen.

 

こうした流れも踏まえて近頃では、
YouTuberやインフルエンサーの存在感が増してきたり、
企業も新しい人々に対してプラスワンの価値を求めるようになってきた

 

究極に言えば、“機械や既存のものに代替が効かない存在”とでも言おうか
“個人が企業を凌駕する時代になってきた”とも言われている

 

従来は年功序列・終身雇用、
若者は“企業の中で育ててもらうもの”だった日本では、
確実に真逆とも言えるような方向性へ向かっている

 

 

 

しかし、私はそれに対して怒りを抑えられない
これは、新しい欧米的なシステム、見方を取り入れた結果かもしれないけれど
大学にいるうちに“就活”というフェーズの中で勤め先を見つけて、
卒業したらさっさと社会に出て働く、
そんなおかしなシステムを採っているのは、日本くらいのものだ

 

実質三年生の春から就活は始まっていて、今後さらに早まると思われている
こんな環境下では大学で学んだことが軽視されるのはある意味当たり前だ
日本の学問水準が下がる一方になっていくだろうことは否めない

 

時間のない中で、インターンシップで実践的なことを学ぼうとしたら、
休学するか、授業をサボるしかないけれど
未だに日本では、休学するというと好奇の目で見られることも少なくない

 

結局何もかも、楽して良い人材が欲しい、と思う
企業のエゴというか、もっと主語を大きくすれば日本社会の構造の問題だと思う

 

 

 

まあ、話を戻すと、こうした中では、
誰しもが“プラスワン”の価値を持つこと、
そして“セルフブランディング”の能力が求められる

 

こんなの、ライフワークに設定したって良いような難題だ
それを、20そこらで完成されることを求められる

 

問題は、この二つができなければ良い勤め先を見つけられないどころか、
将来的には全く職にあぶれる可能性が否めないということ、
そしてそうして途方にくれた若い人々を、
この社会は誰も救ってくれないだろう、ということ

 

 

 

違うだろう、と私は思う
問題は、いかに効率よく金を集めるかじゃなくて、
本当に求められているのは、
どれだけの人がちゃんと生活していけるか、
そういった社会のキャパシティだろう

 

 中には、自分の中に
そうした価値を見つけるのが難しいと感じる人もいる
全員がインフルエンサーになれるとしたら、
もうそれは果たしてインフルエンサーと呼びうるのか

 

そもそも、生まれついた環境次第で、
そうした発想を得る機会を得られない人だっている

 

こういう、いわば取り残された人々を出さないために、
安心して暮らしていけるように
“社会”というものは発展するべきなのではなかったか

 

能力がなければ、切り捨て、なんて
教育の再生産のことを考えれば、立派な差別だ

 

 

 

見直すべきことはたくさんある、
全てがうまくいくなんて、私も思っていない

 

しかし、私は少なくともそういったムーブメントに加担したくないし、
将来的には、人々がもう一度立ち上がっていくための原動力になるかもしれない、
そういうものを世の中に放流できたら良いな、と思うのです

 

本当にコロナだけのせいなのか。Sind wir in diese Lage wirklich nur wegen Coronavirus geraten?

 

 

あっという間に五月の末
ここにこうして再びやってくるまでの間、
おそらく私は、完全にデジタル疲れと将来への重圧にやられていた


オンデマンド配信は2倍速で見れるからいいけれど、
Zoomを通じて始まった授業に関しては、
受けている間はともかく、
終わった後の身体、精神への疲れが凄まじく
終わった後すぐに、何かを始める気にはならない

 

それでも最近学んだのは、
課題は出されたその日中、時間を空けずに勢いで終わらせた方が、
はるかに効率もいいし、気分も安定すること

 

かといって、必要なことは終わらせた、という安心感にかまけて
それ以外のことが手付かずになってしまうことも、しばしば

 

結局、こうしたことが重なり、
自己嫌悪に陥ることは、少なくないけれども

 

自分に課している量が多すぎる、とは決して考えたことはないし、
結局全然達成できてないから自分では全くそう思わないのだけれど、
それでも私は周りに真面目と言われることが多い

 

本当に真面目だったとしたら、どんなに良かっただろうに

 

 

 

さて、その間に色々、
この場所と私の関係性について考えていたのだけれど

このブログはドイツ留学一年前から書き始めていて、
ドイツに帰ってくるまでは、書き続けようと思っていた

 

そうすることで、自分の変化とか、記憶とか
自分自身の見えない部分を感じ取るための文章、
いわば定点観測のような、そういったイメージだった

 

けれど、まあ
こんな風に私はもう日本に帰ってきているし
更新も不規則になるだろう(増減はわからないけれど)
今後、ドイツ語関連のことを書くことも減る

 

だから、“日記”という体裁は、前回までで終わりにして、
エッセイ、とまではいかないけれど、
考えていることを深掘りするための場にした方が良いのかな、と

 

そういった心境の変化があったので、
タイトルのつけ方を、今回から変えることにしました
(独タイトルをつけているのは、うん、
単なる雰囲気というか気分です、特に深い意味はありません)

 

 

 

さて、この状況下、様々な人が
アフターコロナの世界について論じている

 

勿論、未曾有のレベルの大災害だし、
感染症に関して何も言えることはない
それでも私は、
“既にあった問題の深刻化が加速しただけ”
という見方に大方賛成だ

 

グローバル化に並行して、
ポピュリズムに代表される内向きの力、
そうして国境に走ったひび割れ

 

AIの登場とデジタル化の波は、
そもそも人の手を現場から遠ざけようとしていたし

 

手の伸ばせる範囲だけでなく、
どこにいる人とも繋がることのできるシステムは構築されたけれど
それと反比例するように、人との距離は、他人の存在感は、
遠ざかり、薄まってきているように思うのだ

 

医療の現場や補助金など、社会福祉面であたふたしているのも、
裏を返せば、今までそれだけ“別のこと”に予算を充ててきた、ということだ
例えそれが“国益”のためとされていたとしても

 

一度茹でられた玉子が、もう卵には戻らないように
元の世界にはもう戻れない、不可逆性がそこにはある
人との物理的距離も、社会の仕組みも

 

 

 

 

30.4.2020

 

人と離れて、話さなくなるほどに、
その人自身の姿と、私の中にある印象の像が、乖離していって
人のことが、分からなくなっていってしまうのは、私だけだろうか

 

 

 

近頃、ふとしたことで、ふとしたきっかけで
人のことが頭に浮かぶと、
プラスな感情ではなく、かなりの確率で、マイナスの感情が浮かぶ

 

この距離の空いている間に、
ゆっくりとそうしたことを考える時間ができてしまって、
主観的な記憶を客観視するという
おそらく最悪の結果が生まれるであろう思考に陥る

 

結局、私は彼らにとってどんな存在なのかなとか、
どう考えられているんだろう、とか

考えても仕方がないし、
おそらく相手は一ミリも考えてない
被害妄想を膨らます、自意識過剰な自分がますます嫌になる

 

もっと最悪なのが、彼らと自分を比較してしまうこと
取るに足らない、しがない自分のことを
普段はそれでも誇りに思える部分がある、のに

 

比較して、足りない、と思う部分があるだけで
存在の全否定、というか

 

“このままの自分では、実は駄目なんじゃないか”
という強迫観念に襲われて
自分がどこに立っているのかさえ、あやふやになる

 

みんな違う人間で、着眼点も違う
何をしたいのか、何をするべきなのか

 

全て同じにはなれない、分かっているはずなのに
自分をネガティブな文脈で“異端”と感じた瞬間
脆い心がぼろっと崩れる

 

分かってる、
克服するには自分が強くなるしかなくて
もう、人に頼るべきトピックは
別の部分に移っている

 

だから、誰に相談することもない
そもそも、この相談をして、
人から見られる目線が変わるかもしれない
そのことすら、ほんとうは恐ろしい

 

私は、こんなに臆病だっただろうか

 

 


ただ、常に沈み込んでいるわけでもなく、
今日は暗い話から始めてしまったけれど
まあ、いわば躁鬱の繰り返し


ただ、きっと圧倒的にアウトプットが足りていないんだろうな
という漠然とした印象はあるので、
どうにか、ここを改善できれば、ましになるのかもしれないな

 

 

 

さて、最近はもっぱら、
論文のテーマを決めるために
付け焼き刃で国際政治絡みの論文を読み漁っていた

 

ようやく、不安定性の原因だった間隙を埋めるように
空白のカテゴリーに、知識がすっと馴染み始める

 

結局、私は断片的な知識だけ詰め込まれても
右から左へ流れていってしまう性らしい
記憶力、というよりも、
多分これは、記憶の仕方の問題

 

例えば具体的な名称が分からなくても、
人から一度聞いた話、エピソードは、その内容だけでなく
いつどこで聞いたのか、大体頭に入っている

 

そしてある記憶のテストでも毎回出てくるのだけれど、
やはり三次元視覚記憶が強いようで、
振り返ってみれば、確かに
大体の記憶は映像とともに蘇ってくる
(だからシチュエーションとかも鮮明に思い出せるのかも)

 

もう一つは、因果関係や、対置よって物事を記憶していること

 

多分、文法や数学の公式が
皆と同じようなペースで入っていかなかったのもそのせいで、
ドイツ語をある程度理解した今になって、
ようやく馴染む英語のルールがたくさんある

それは多分、言葉の文法的機能が一度、体系的に頭に入って、
少しは整然と整えられた棚の中に、文法の知識を並べ直しているからだ

歴史も同じで、
片側から見つめられた歴史を聞いても、
ただの暗記作業になってしまうのだけれど、
他国との関連性の中に事象を捉えることで、
初めて因果関係の際立った物語として捉えられる

 

 

 

まあだからこそ、
いろんな歴史が垣間見える小国外交を選んだのかもしれない
そんなわけで今考えているテーマは、
バルト海地域の協力について、だ


このテーマでもう一つみそとなるのは、
この間だと結構、民間的な協力も発達していて、
文化、教育などのローポリティクス分野における協力が盛んであること

 

ふと思い出して、自分の入ゼミ動機を見直す
そこには、“外交が下からの影響によってどう動くのか”を観察したい、とあって

 

まあ、国際政治や外交について、
テクニカルな知識がゼロだったあの頃と、
ある程度基礎の部分はできてきた今の思考の枠組みは
大分違うだろう、と思っていたのだけれど
案外、変わらないものなのだな

 

“変わらないもの”がある程度、自分の中にあるということは
いくらか、自分の心を落ち着かせる要因には、なる